2014年10月19日日曜日

“世界が抱擁する”~「アポロは月に行かなかった」~


 先の皆既月食の折には、うす雲をとおして怪しく灯る赤い容姿に酔い痴れた。月はかけがえがなく、見上げるだけでいつも嬉しい。隔たりは36万キロメートルもあると言うが、かつて其処に、幾たりもの人間が降り立ったという事実は、今更ながら強い驚きをもたらす。行こうと思えばどこへでも人は翔べるのだ、行けないのはきっと心が弱いのだ、と真顔で諭されている気持ちになる。

 その月面着陸を題材にして草川隆(くさかわたかし)が執筆した小説「アポロは月に行かなかった」(*1)が復刊なり、現在書店の棚を飾っている。あらすじを紹介すると、アポロ宇宙船発射の少し前に、日本から特殊撮影の映画技師が極秘裏に招聘される話だ。国の威信にかかわるプロジェクトを完遂するため、予防策「サブ・アポロ計画」が急浮上したのだ。セットが組まれ、精密な模型を駆使した月着陸のあるべき様子が撮られていく。果たしてその特撮映像は使われるのか、そして、国家機密に関与した主人公の運命やいかに───

 映画トリックで国の窮地を救おうと試みる話は今でこそ珍しいものではないが、『カプリコン1』(*2)や『東京湾炎上』(*3)といった映画作品、浦沢直樹の【BILLY BAT(ビリーバット)】(*4)よりも先行していたわけだから、そこを踏まえて読むと痛快この上ない。出版から間を置かずに映画化されていたら、もしかしたら世界的な興行に繋がったのではなかったか。卓抜した発想力に驚かされる分、とても惜しい気がするのだった。

 さて、小説の中身はここでは脇に置き、装丁について語らねばならぬ。1970年の初版と変わらずに表紙の構成はシンプルで、明朝の赤いタイトルが最上段に配され、下に黒ゴシックの作者名を意趣なく従えている。あっさりした白く明るい面持ちが、特殊な光沢紙で満艦飾に彩られた近年の書籍群と並べ置くと逆に人目を引くのだった。

 摩天楼に向けてまっしぐらに落ちていくサターンロケットの絵が、不吉ながらもどこか懐かしい。時間の波を突き破って過去がゆらめき漏れる感じがして愉しいのだが、この絵も含め挿画を担当したのが若かりし日の石井隆であり、計算すると二十代の半ばでの初期の仕事と分かる。宇宙船、船外作業服、撮影機材、年季のはいったレンガ壁、サングラスをかけた男、はためく星条旗といった素材をコラージュ風に配してあるのだが、描線は細く均一であり、余白や黒く塗りこめられたベタ部分が大量にあって随分と硬質な絵となっている。

 【天使のはらわた】(1978)以降の劇画や映画宣材の濡れたタッチを瞳に刻んだ人には意外に映るかもしれないが、自ら納得し、また、読者に支持される描線を体得するまで試行が重ねられ、趣きのまるで違う足跡を印すことが漫画家には間々有ることであり、手塚治虫にしても諸星大二郎(もろぼしだいじろう)(*5)にしても、雰囲気の全然違ったコマなり短篇を作歴に組み込んで世間を驚かせている。石井はプロの漫画家に師事したり、アシスタント業を経て世に出たのではない徹底して独学の人であったから、紆余曲折の幅は他の作家よりも巨きくなって当然であって、「アポロは月に行かなかった」の乾いたタッチはそのひとつに過ぎない。

 石井が己の世界像を手中にする遥か前のスタート地点に「アポロは月に行かなかった」は在って、今の石井が世に示すものとはまるで違っているのだけど、その分、現在の石井世界を構成する要素なり技巧を対照的に際立たせる習作とも位置付けられ、思案を深める絶好の材料と思う。

 石井の世界像とは、はたして何か。しげしげと「アポロは月に行かなかった」を見返し、加えて同時期に雑誌に寄せたイラストや挿し絵も合わせ眺めた上で、その全般を念頭に入れて慎重に読み解くなら、今の私たちを圧倒する叙情性あふれた空間(映画も含めて)を石井隆が体得したのは、名美に代表される“ひとの面影”とそれを抱擁する“背景”各々を共に会得した瞬間であったと言えるだろう。

 前の方の名美および村木といった“人物の面影”、というのは誰にも分かりやすい話だ。石井劇画の看板役者として名美と村木のふたりがいる。彼ら無くして数々の名作は成立しなかっただろう。たとえば「アポロは月に行かなかった」と同時期の石井の一枚絵を取り出し、これを見れば理解は一気に進む。そこには名美も村木もまだおらないのだが、それより何より当初の石井の描くおんなも男も大概はひどく醜いのだった。皮膚下に隠れた頭部の筋肉、眼輪筋(がんりんきん)や皺眉筋(すうびきん)、口輪筋(こうりんきん)といったものが制御不能となり、はげしく収縮して顔面に深々とした皺を刻んでいる。

 それは私たちが鏡の奥やスポーツ競技の中継、職場やあるいは寝室といった日常のあちこちで発見する生きた人間の顔立ちに違いなく、醜いと言うよりも実際的と呼ぶべき様相なのだが、彼らを揺さぶる理性とはかけ離れたもの、つまりは苦痛や苦寒といったものだけが生々しく伝播されるばかりで、見る側の眉根にも自然と皺が寄ってしまうのだった。胸の奥の心筋に触手が伸び、血流を乱すまでには当然至らないから、ただただ呆気に取られて見送るより他はない。その宙ぶらりんの感懐というのは、後年の流麗かつ芳醇たる石井世界を前にした時の動悸や昂揚、陶酔からは随分とかけ離れている。

 石井隆が名美や村木の絵姿をものにして以来どうなったか。刻まれる皺はあまり見られなくなって、その面貌はすべすべとし、過酷な情景のなかでさえ端整でやさしいと感じさせた。表情筋をほんのわずかに、見えるか見えないか程度に緊縮させる、いわば能面にも似た面立ちを石井はあえて選んだということになる。結果的にそれが石井隆の世界の方向を指し示し、独特の航路へと導いたのではなかったか。

 “名美泣き”に代表されるように石井のおんなたち、男たちは表情を隠すことが常になり、感情の起伏をぽつねんとした台詞にひっそりと託すか、それとも喉元で押し返していくのだった。一瞬だけ浮かんでは消える唇のゆがみ、伏した目のふちに宿る微かな痙攣、何か言いたげに半開きとなる唇といった微妙なものを通じて、私たちは名美や村木との交信を余儀なくされた。明確なシグナルはなく、おぼろげな、途切れがちなものに懸命に耳を澄まさねばならぬ。それが人間であり、それが他者であり、それが人間と他者とが魂を結束する術(すべ)なのだと信じられる、そういう目線と気持ちが働く読者が自ずと選ばれて石井世界の周縁には集まったように感じられる。

 では、もう一方の石井隆の“背景”とは何か、それを考える上でも「アポロは月に行かなかった」や初期の一枚絵が示唆するものは多い。ある連作では、林の奥や海面下で性愛遊戯にふける男女をパノラマミックに描いていた。紙面の端々に配置されたおんなたちがフリーズするさまは月岡芳年(つきおかよしとし)の描く義経やカラス天狗たちの物腰となんとなく似ているのだが、人物の表情や姿態以上に注目したいのは舞台に選ばれた野外風景の描写である。

 隙間なく画面を埋める樹々や草葉の鬼気迫る筆致には、石井隆という作家の内実に灯る緻密さ、繊細さが垣間見られ、後年石井が描くことになる霊的な木立ちなり陰森の萌芽を見ている事に違いないのだけれど、肝心のところが足らない印象を覚える。背景と人物とは通信を途絶し、互いに無関心に佇立するばかりであって、これは“石井隆の背景”にまで育っていない。白樺の群立、笹の密生はそれ自体が風雪に耐えて個別に生きている様子であって、手前の人物とは溶け合わない。

 後年描かれた作品、たとえば【おんなの街】シリーズの一篇【赤い蜉蝣(かげろう)】(1980)をここで並べ置けば、石井隆に何が起きたか、何を手に入れたのか理解されよう。悶々とひとり進退に迷って、おんなが断崖のふちにたたずんでいる。数歩先に足を踏み出せば身体は宙に浮き、煩悩なり襲いかかる日常の障壁から解放されるかもしれない。おんなの眼下には波をしぶく暗い海がのったりと横たわり、風は盛んに吹いて細い背中を押すようだ。

 このとき風は、おんなを含めた“全て”を影響下に置いている。長い髪はざわざわと乱れるのだし、トレンチコートのベルトは風圧でひしゃげて上手へと押しやられている。おんなの足元の草葉はもちろんのこと、よく見れば、崖付近より湧き出でた雲が海原へとたなびき、本来なら岸壁へと寄せ来るはずの白波までも風の勢いに負けて、左から右へ押し返されていくのだった。人物と背景が見事に一体化して一幅の風景画が完成しているのだが、その雲のどす黒い、尋常ならざる色や、波の異様なかたちを見れば、単なる写実に終わっていないことは明白だ。

 連載に追われる人気漫画家の創作工程を開陳する雑誌の特集や展覧会で、原稿の下書き段階をコピーしたものが並んでいるのをたまに目にする。それを見ると忙しい作家は背景構図を荒っぽい線で定め、狙いやディテール説明を添え書きして送り、林や街路、建物の内装や日常道具といったものの線画をアシスタントにあらかた任せている事が読み取れる。つまり作家は、主線(おもせん)と呼ばれる人物描写に注力し、その動きや表情でもって紙面に魂を吹き込もうと全身全霊を尽くしていくのだが、石井の場合には背景描写と主線(おもせん)の比重はほぼ同等であり、下絵の段階で背景の森や街路、酒場の棚や壁に貼られたポスターまでが狂いなく、詳細に鉛筆で描かれていることが多いのだ。ほかの漫画家のところでアシスタントをしてきた者は、この背景を含めた完璧な下絵に目を丸くした。この辺りのことは以前書いた通りだ。

 アシスタントの手腕を疑うとか、統一した世界観を維持したいという極端な神経質さが露呈しているのでなく、“背景”が背景以上の意味を持たせられた為だろう。現実の空間をカメラにて写し取り、コマにそれをひとつひとつ丹念に配置して映画的空間を劇画に注入し、誌面を擬似的な銀幕へと変幻させる狙いから始まった作図工程かもしれないが、いつしか石井作品の背景は湿度や体温を帯び、“登場人物の心理状態までも鎖(さ)し固める”、そのような重い役割を担わされることになった、それが全てだろう。

 その事は映画作品にも通底するのであって、近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の撮影現場のひとつである巨大な石切り場にて、ヒロイン役の佐藤寛子(さとうひろこ)に対して石井は、この洞窟全体が“れん”という不幸なおんなそのものであると静かに説いて演技を導いたのだが、石井のこの言葉はまさに石井の世界像とは何かをそっと指し示すわけである。

 能面のような一見感情を露わにしない人物像の創造と共に、石井は風をともない、闇を従え、そして雨を呼び寄せながら、人物の胸中を巧みに代弁する表情豊かな背景の創出に着手し、それを筆に馴染ませていった。森は森以上の光を湛え、屋上は屋上以上の薫風を吹かせ、廃墟はひそやかに息づき、雨は体液のようにぬめっていく。原作者と作画を兼ねた役割にとどまらず、美術監督の役割を石井は兼任することになったのであり、その総合的なまなざしと実行の積み重ねが、いつしかフィールドを替えて映画作家となって以降も役立ったはずなのだ。劇画と映画双方を断絶させることなく裾野を繋げることに成功し、圧倒する絵作りを継続している。



 「アポロは月に行かなかった」には私たちを強く牽引する石井世界の人物も背景も見止められず、単調な固い線が走るばかりなのだが、黒インクの盛んに交差するその様に接していると、一心不乱に机に向かう二十歳過ぎの若者の丸まった背中と、ペン先に注がれた硬いまなざしが透けて見えて来る。描こうと決めた対象に焦点をしぼり筆を走らせ、夜通し紙面と格闘して生じた摩擦熱をあえかに感じ取ることが出来る。

 あの時の石井に、今このときのメガホンを握る自身の姿を想像出来たものだろうか。苦労して己のスタイルを確立し、他の誰もが真似し得ぬ世界を構築してみせたその半生の、何かビジョンのかけらでも瞳に瞬いたものだろうか。そんなもの、当然ながら誰にも見えはしない。真っ暗な道をがむしゃらに、懸命に駆けるしかなかったろうあの時、石井隆もまた、月を目指して飛び立った一機の宇宙船であった。未来に向けて地上を蹴ったばかりの真新しいロケットだったと思う。

 挫折を経てひどく打ちひしがれた若者を前にすると、この白い表紙の本とその後の石井の活躍ぶり、墨の濃淡を使い分けて拡がりを見せた劇画の傑作の数々と陰翳の深い映画のことを教えたくなる。人生は36万キロメートルもの距離に実質等しい。道のりは長く、どこまでも空虚な闇だ。誰もがロケットとなり、炎のつづく限り、ひたむきに飛び続けるより他ない。


(*1):「アポロは月に行かなかった」復刻版 草川隆 栄光出版社  2014
(*2):CAPRICORN ONE  監督ピーター・ハイアムズ 1977
(*3):『東京湾炎上』 監督石田勝心 1975
(*4):【BILLY BAT』(ビリーバット)】 浦沢直樹 ストーリー共同制作 長崎尚志
「モーニング」に連載中 2008年─
(*5):たとえば諸星大二郎が1971年から翌年にかけて描いたと思われる【連作 オー氏の旅行】の洒落た構図やスマートなタッチを目にした時、土着的で野太い諸星作品に慣れ親しんだ熱心な読者ほど衝撃を受けるに違いない。流行漫画家とは、世間で売れる線(タッチ)を探し当てた優れた戦術家の側面を持つことを再認識させられる。


2014年10月4日土曜日

「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[13]~


 石井世界に惹かれ、耳目を属するひとは少なくないが、それは石井が強靭な作家性を有しているからに他ならない。世に出された劇画や映画を額装して記憶の回廊に並べると、それ等は共鳴して確かな調べを謡い出す。画家の個展会場の趣きを自ら示し、点でなく面でもって胸に迫って来る。

 もちろん娯楽を目的とした物語であり景色であるから、理屈ではないもの、つまりは性欲や支配欲、暴力的衝動の顕現を劇中の男女に託し、日常のむしゃくしゃする気分の転換を図るだけでも当然かまわないのだけれど、少しの間たたずみ、その絵にたいして低吟したい気持ちにさせる強い磁場がある。作品単体で語る時間と共に、作家の内面宇宙を手探りする思考の枝葉が育ってしまう。出版の沃野とウェブの密林を歩み続けていくと、同じ感懐に捕らわれて石井世界をしずかに、けれど大切に語るひとに時折はちあわせするのだが、だからそれは自然なこととしか私は思わない。人物なり事象を粘り気をもって見つめる癖の日頃からある人ならば、石井の特異性はすぐに了解なるはずだ。

 「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」(*1)が世に出され、先日にはこの本の内容について往時の関係者が集い、歯に衣着せずに語った新聞が刷られている。(*2) 後者は身近な書店には見当たらなかったから図書館まで足を運び、複写して持ち帰って何度も読み返した。厚味のある前者はまだ読み切れていない。飛ばし読みが出来ない性格だし、興味深い記述が頁ごとに立ち昇るものだから就寝前の愉しみとしてゆっくり味わっている。原作者兼脚本家として石井は曽根作品の何作かに関わっているから、その部分だけは先に探して丹念に読み込んだ。

 継続して石井世界について綴っているひとが私の視界のなかに何人かいて、その内のひとりが両者の読後感をウェブに掲げている。わたしもほぼ同様の思いを抱いた。書いた人はまさに上の“石井世界をしずかに、けれど大切に語るひと”のひとりであり、石井側から見つめた際の留意点や疑問点を簡潔にまとめているのだった。とても読みやすいから、特別にリンクさせてもらおうと思う。『天使のはらわた 赤い教室』(1979)について惹かれる人はぜひこれを覗いてもらいたいし、読んでさらに関心が湧いたなら自伝や座談録をどこかで探してほしい。
http://teaforone.blog4.fc2.com/blog-entry-1101.html


 「読書人」の後段でも強く感じるし、上に記した同好の士の声にしてもそうなのだけど、亡き人をめぐっての欠席裁判にはなっていない。物づくりの難しさと嬉しさが伝わってくるし、故人とその作品への真情あふれた手紙となっている。このところ年輩者の葬儀に参列すると弔辞を読む人もおらず、有っても日本赤十字社からの定型の感謝文が代読される場面が多いのだけど、そんな淋しい野辺送りと比較すればどれだけ賑やかで嬉しいものか。自分が死んでもこんな実直な声は寄せられまいから、羨ましいとも単純に思う。自伝の未読部分が三分の一ほどもまだ残っているから、微笑みつつ耳を傾けてみよう、行間に埋もれた聞こえない声を手繰ろうと思う。


(*1): 「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」 文遊社 2014
(*2): 「曽根中生とは何者か」 週刊読書人 9月19日号