2016年12月30日金曜日

“ドッペルゲンガー”(5)


 “風景”に話を戻します。石井隆の創造世界に視軸をどっしりと据え、歳月をある程度経ていくと、いつしか各作品の台詞と道具、構図や哲学なりが別の作品と二重三重となることに気付く。繊細な糸で結ばれていて、その刻刻にもたらされる愉楽は大きい。ある時は艶やかな共鳴があり、ある時は長く尾を引く疼痛に悶える。

 この理屈で言えば、【おんなの街 赤い暴行】(1980)とそっくりの現象がどこかで起きていてもおかしくない。目を凝らし、慎重に記憶を手繰ってみる。もちろん前述のとおり、『甘い鞭』(2013)の地下室があり、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)でおんなの魂を侵した風呂場があるが、今欲しいのは作劇の根幹、彼の“風景”とは何かを明示する刻印である。

 陰森として凄気漂う【赤い暴行】の風景分裂、これと相前後して石井は独りのおんなが冥府をめぐる連作短編を著していて、(*1) その中に名作【おんなの街 赤い眩暈】(1980)が含まれる。この譬(たと)えは作者に嫌われるかもしれないが、石井隆版【ねじ式】と呼べそうな趣きだ。(*2)

 あらすじを綴ることに意味が有るのかどうか、また、上手く伝わるとも到底思えぬ幻想譚だけど、これから書く推論を分かってもらいたい一心から短くまとめればこんな具合だ。

 かんかん照りの舗装路をおんなが汗を拭き拭き歩いている。ゴーッという突然の地鳴りが聞こえ、横断歩道に亀裂が走っておんなは横倒しとなる。頭部をしたたか打ったおんなの意識は滑空を開始し、路地やトンネル、廃墟の容相を呈した夢うつつの空間を彷徨い、やがて案内人の手を借りて“あっち”へと歩み去る。ぽつねんと佇むおんなの影が大きな瞳に映じ、ぐっと手前に視座を移せば、それは地べたに血を流して倒れるおんなの半身なのだった。周囲に人影がある。「救急車呼んだからね ガンバンだよ!」「轢き逃げらしいわよ 車逃げて行ったもん」とめいめい勝手に言葉を発しながら、痙攣するおんなを為す術もなく見下ろしている。

 劇中には具体的な背景が大量に挿入されて在り、どれもが印象深い。一部は複数の西洋絵画を縫合させた物と推察されるのだけれど、それ以外のほとんどは取材に基づく実在の景色と思われる。(*3) 着目すべきは、冒頭の転倒時の背面に描かれたのどかな街路と、最後の見開き頁に横臥したおんなを取り囲む人だかりの後方、にょきにょき生えてそびえる高層ビルの群れだ。前者は写真を基に描かれ、後者はコントラストを強調されたコピー画像が使われている。技法こそ違うが石井がその足でおもむき、その目で切り撮って来た場処が採用されている。

 転倒事故を起点とした臨死体験を描いたもの、と捉えた場合、冒頭と終幕の背景ふたつは面立ちを重ねてもっと気持ちに馴染んで良いはずなのに、よくよく冷静に考えてみればいかにも不自然な取り合わせとなっている。むしろ石井は、極端なパーツをわざわざ選んで配置しているように思う。波打つ大地に足をすくわれて傾ぐおんなの背後を、チン、チンと一台の古めかしい市電が鐘を盛んに鳴らして通り過ぎる。新宿に市電は走っていたか、そもそもこれはいったい何処なのだ。

 また、冒頭では天頂近くに紅炎(こうえん)揺らめかす太陽を配置してあるのに、一転して幕引き場面では漆黒の闇が摩天楼の上空を埋めているのであって、時間軸上の折り合いさえつけようとしない。よくご覧よ、変なのが分かるかい、どういう事だと君は想う、と石井は例によって黙って映像を差し出している。

 倒れて意識障害を起こした人間が起き上がること叶わず、けれど思考を混濁させたまま夢に迷って指先をさわさわと蠢かす。強風に吹かれるどんぐりのごとく、ごろごろと寝転びながら道路を横断し、もそもそと階段を登り、交通機関を蛇のように這って乗り継ぎ、西新宿までようやく辿り着いたのではもちろんないのだし、そんな狂った苦行を経る間にいつしか午後の陽射しは消え去り、ネオンの灯る熱帯夜に至った訳でも当然ない。終幕に描かれた夜こそが現実で、その数コマ以外はすべて黄泉路、石井劇に特徴的な人の精神が拡張した“風景”が起動したと解釈すべきだろう。

 そんなのは読めば誰だって分かるさ、くだくだしい説明はいらないと立腹の御仁もおられようが、私がほんとうに書き遺したい点は実はそこではない。

 【赤い眩暈】の開幕を飾る市電について調べてみたのだが、これは昭和二十三年から昭和二十七年に新潟鉄工所において一台あたり700万円で新造された半鋼製二軸ボギー車であり、石井の生まれ育った街の戦後復興期の主力として活躍した「100型」と呼ばれる電車と分かった。昭和四十四年に交通局においてワンマン化改造工事がされ、昭和五十一年の終業時まで運行されている。(*4)

 【赤い眩暈】の発表は昭和五十五年であるから、その時点では市電運行は終了していたのであって、だからずっと以前の段階に石井が撮り溜めたフィルムから、鐘を鳴らして蘇えり、焼き付けられた写真が原形なのだと分かる。電車の窓の下に「ワンマン」の看板が読めるから、石井がこの景色をファインダー越しに見たのは昭和四十四年より後となり、つまり学生の時分以降の光景と判断される。

 おんなの精神を包みこんでいるのは途切れ途切れの記憶というよりも、ここでは過去という時間そのものなのである。そこのところがきわめて肝心と思う。昼とか夜とか、そんな短い切り貼りではない巨大な跳躍が、隠し絵さながら秘かに組み込まれている。それも【赤い暴行】の白い崖とふたつ揃って、“故郷”の原風景が次々と私たちに無言の内に示されていた次第なのだ。

 新宿以外の背景素材が欲しくなり、古いキャビネットの奥に仕舞われたアルバムを引っ張り出してきた可能性がゼロでないにしても、名美を愛しく、死の経緯を情念こめて描いて、その度に“故郷”へと先導するその筆先には詩的な側面がつよく薫っている。

 【赤い眩暈】の構造は他の劇画作品と融合した上で、石井の近作『フィギュアなあなた』(2013)に結実したが、そこに観客のほとんどは地獄を垣間見た気がして悪寒を覚えた。うら若い男女が配置され、つるつるの染みひとつない肌が露わとなり、踊躍(ようやく)し、舞踏する肉体を見せつけられた私たちではあったが、舞台となった廃墟ビルや棄てられた人形、雨ざらしの屋上、荒廃したアパートの小部屋が背景を覆い尽くし、死という空間が見捨てられた場処、不要と見なされた人間の放り出されるゴミの山とも思った。

 はたして石井のまなざしの奥に拡がる“あっち”とは、荒廃を極めるばかりの廃棄物処分場であるのかどうか。チン、チンという穏やかで懐かしい鐘の正体をこうして知ってみると、もう少し前向きな、多角的な想いが込められていると感じられる。

 死とは、時間軸に縛られることを宿命付けられた生身の人間が冷たい頸木(くびき)から解き放たれ、時間流とは無縁の新たな舞台に一歩だけ踏み出すこと、と、石井は解釈する。劇画や映画は、それを現世で視覚化し得る唯一の奇蹟でありはしないか。時間という圧倒的な流れの前に無力な人間が最後に投げつける持ち札として、命がけの抵抗の果ての褒賞としてそれはあり、渡河した瞬間から私たちが過去と呼ぶ時空がやさしく待ち止める。

 見知った人の訃報を耳にすると無惨な断裂の想いに苛まれるのが常であるが、そのように信じてみれば、救いの手がそろり目の前に伸ばされて感じ取れる。こんな歳の瀬ではなおさらだ。頑強な足腰と快適なウェイダーの与えられ、微笑みつつ心ゆくまで時の川と戯れる‟風景”の訪れを切に祈るのみだ。


(*1):私たちファンは勝手に“タナトス四部作”と名付けてみたが、それ等を構成する素材を丁寧に調べていくと、病的なもの、破壊的な物ばかりでない事が分かる。“タナトス”という括りは性急過ぎるかもしれない。
(*2):【ねじ式】 つげ義春 1968
(*3): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157506539&owner_id=3993869
(*4):仙台市交通局 仙台市電保存館 展示資料より


2016年12月26日月曜日

“ドッペルゲンガー”(4)


 石井世界において“風景”は単なる舞台装置ではなく、人間の精神を拡張させた確かな存在として働いている。どれだけ静慮に価するか、二、三の分身譚を通じて読み解いてきた。

 “風景”の話からはやや横道に逸れるけれど、少しだけ影法師そのものについて想いを馳せたい。「ウイリアム・ウイルソン」等のよく知られた怪談とは異なり、石井の劇では同じ顔立ちの相手と鉢合わせして視線がからんでも、驚愕したり拒絶することなく、即座に自分自身と認めてにじり近寄っていく。具体的には『甘い鞭』(2013)の終局に出現した分身とそれを前にした反応を指すのだが、その様子がなんとも風変わりである。相手に対して一切の反撥を覚えず、同じ磁場に取り込まれたようにして一歩、また一歩と近づいていく展開というのは、私には十分に不自然で独特の展開と思われるがどうであろう。

 厳密にはドッペルゲンガーとは呼べないにしても、石井の劇には相貌を近しくする者への物狂おしい拘泥があり、また、鏡像に対する頓着も明らかだ。これらは同根の事象であり、石井世界を解読する上では容易に外せない点と感じられる。

 たとえば、二、三の作品をここで例示するならば【黒の天使】(1981)の一篇【ブルー・ベイ・ブルース】がまず浮上する。1998年のまんだらけ版で大幅に改稿され、ゲストの不良少女の顔が主人公の殺し屋、魔世というおんなに極めて似た華やかな面貌にことごとく改められた点が印象深い。また、1984年に発表された【赤い微光線】にて、石井の代表作【天使のはらわた】(1977)の主人公‟川島哲郎”を彷彿させる無頼、川島が登場し、名美をめぐってその恋人である優男(やさおとこ)村木と正面から衝突し掠奪を繰り広げる辺りがそうであって、極めて異色でありながらも石井という作家の心髄が露出した瞬間ではないかと思う。特に後者の男ふたりは似た顔立ちであることを宿命づけられながら、双方共にこれに全く触れることなく、化粧台の鏡像のように黙々とおんなを挟んで向き合っていき、さらには終盤におよんで徐々に容姿の段差が埋まっていくのは玄妙この上ない。 (*1)

 心理学や動物行動学では雌雄が惹かれ合う条件は何であるのか、「配偶者選択行動」という題目で研究されているが、それによれば遺伝学的に遠すぎず近すぎず、ほどほどの距離をもった相手が選ばれやすい。夫婦が似るのもそれが一因という。また、ふだん鏡などを通して見る自分の顔を基準とし、似た面立ちの犬を飼ってしまう傾向が私たちにはあるらしく、これを「親近性」と称すると専門家は書いている。(*2)

 確かにそういった現象は散見されるけれど、日常の赤の他人と交り合りにおいては連れ合いやペットを求めるような取捨選択の意識なり行動はともなわない。多くの場面が受け身であったり、無理に押し付けられる出逢いであって、そこでうり二つの相手と対峙する羽目に陥ると自由が利かない分、生理的にいかにも気色が悪い。

 余程の自信家でなければ人は自分と似た他者を即座に受け止め、無条件に愛せるものではない。了見の狭い、歪んだ過剰反応だろうか。私などは相手の厭な部分、それは寝癖が取れぬままの髪や伸びた鼻毛であるかもしれないし、バランスの悪い目鼻立ちや頓珍漢な服装、それに、場慣れせずにおどおどした身振りといった外面の困ったところ、はたまた言葉の端に出る底意地の悪さ、凡庸な頭を晒す滑稽な会話など内面の恥ずかしい部分がやけに目についてしまい、我が身の弱点や未熟さを指摘されたような後ろめたい気がして思い切り遠ざけたくなるか、別のテーブルに逃げたくなる。

 ブラッドベリの短編に双子を題材にした作品があって、ひと言で書けばうつくしい姉妹が徐々に仲たがいしていく様子を描いた内容だけど、これなどは実に気持ちにしっくり来る話だ。顔だけでなく服装も仕草もそっくり似せることを信条とする姉妹の間に波が立ち、弦が切れるようにして心が乖離していく。やがてその肩割れが体型を変え、髪の色を変え、服を変えて抵抗を始める。人には本来、近親憎悪とも言うべき魂の渦があって、なるほど親しみを抱く瞬間もあるだろうが、同程度かそれ以上の嫌悪も生まれ落ちる。(*3)

 石井の劇における鏡像はなぜかそういった不快をもたらさず、愛着の対象にしかならない。作家の性格と言ってしまえばそれまでだが、この絶対的な傾性が石井世界の底のほうでマントルとなって流れており、一定の方角に押し流している。それぞれ独立した作品たちを群体のなかに引き止め、その総身に重い勢いを与えている。

 劇画【黒の天使】の最終話にて、ヒロイン魔世ときわめて似た面立ちでありながらもこれまで繊細に描き分けられていた助手役の娘、絵夢が、死者の服を纏い、遂に主人公の相貌とひとつになって、仇討ちのために裏組織の本拠地に乗り込んでいく姿の切迫しながらもひどく甘苦しい気分というのは、石井の鏡像嗜好のひとつの到達点であり、今もってまばゆい熱源となっていて忘れ難い。


(*1): いずれも石井の劇特有の不自然さが愉しく、以前別の枠で取り上げている。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=312127000&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=216419068&owner_id=3993869
(*2):「美人は得をするか 「顔」学入門」 山口真美 集英社新書 2010  107-111頁 
(*3):「鏡」The Mirror レイ・ブラッドベリ 「バビロン行きの夜行列車」(ハルキ文庫 2014)所載


2016年11月23日水曜日

“ドッペルゲンガー”(3)


 【おんなの街 赤い暴行】(1980)で起きた奇妙な“風景”の分裂。これに似た描写が過去の小説や映像にあったものかどうか。関連書籍(*1)の頁をめくり、古い映画もいくつか引っ張り出して眺めたけれど、読めば読むほど、見れば見るほど石井の【赤い暴行】は異趣奇観、突き抜けていると思う。

 「ドッペルゲンガー文学考」と銘打たれたその本のなかに、『ゴジラ』(1954)の原作者として知られる香山滋(かやましげる)の言を借りた箇所がある。香山は怪奇小説を三通りに分類して、自身の作品は(A)に当たると書く。「その一は、怪奇なる存在が、実在のそれらに交って行動する点を主眼とするもの(A) その二は、一見怪奇に見えて、実は合理的に説明付けの出来るもの(B) その三は、故意に怪奇性だけを主張するもの(C) 」(*2)

 ドッペルゲンガー譚は(A)と(B)の間を行きつ戻りつするが、ほとんどは(A)の範疇にておどろおどしく描かれる。最初にある「怪奇なる存在が、実在のそれらに交って行動する」の“実在”とは、劇中の一般人を通常指すのだが、もう少しだけ解釈に幅を持たせれば、小説世界で構築なった町なり社会、環境であって、そこに異質の者が侵入したという意味合いだろう。物語の土俵はあくまでもこちら側に在るのだし、仮に「怪奇なる存在」の摩訶不思議な故郷が劇中で覗かれたとしても、観念的に両者は地続きである。ドッペルゲンガー、日本では分身とか影法師と呼ばれるものが描かれる場合も、大概において舞台である「風景」は唯ひとつであって、そこでドラマはのたうっていく。

 石井隆の分身劇はどこか姿勢が違う。『甘い鞭』(2013)の終幕、極限状態に置かれたおんなが人を殺め、血みどろの体で魔窟をとぼとぼと歩む目線の先に、おのれの分身が忽然と現われるのだったが、それが実在の舞台、ここではSMクラブのプレイルームに入り交じって現われるのではなく、屏風のごとく「自身の風景」を背後に従えている点が特異で面白い。

 私たちは『甘い鞭』のこの場面を前にして、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の幕引きを即座に思い出す。忌まわしき記憶の虜囚となったおんなが精神病院の回廊を幽鬼となって彷徨うのだったが、そこで被験者用に設けられた寝室が突如現われて度肝を抜くのだった。確かに顔付きはあれと似る。しかしながら、『甘い鞭』のそれは合理性が跡形もなく吹き飛び、闇路より無言で湧き出している。癒着した胞衣(えな)さながらおんなの後ろに広がって、ひたすら怖ろしい。

 分身ドッペルゲンガーが心神に関わる現象と捉える石井は、ならば姿かたちだけでなく、風景を従えて出現するのが至極自然とどうやら捉えている。さらにこの事は原作小説をなぞっただけに見える『甘い鞭』という劇のコアが、実は三十年以上の歳月をまたいで【赤い暴行】と完全に連結しており、石井世界の伽藍に隙間なく組み込まれる点を示している。私たち人間を石井は、風景に縫いつけられた存在、風景を纏った者としてずっとずっと見ている。

 それと、これも“通常の”ドッペルゲンガー譚であれば特徴的と言えるだろうが、分身とか影法師が衣服なり装身具を真似する点があって、ポーの「ウイリアム・ウイルソン」でも服装の模倣が繰り返し述べられてあったのだし(*3)、ドッペルゲンガーを題材にした映画にしてもそれは同様だ。「ウイリアム」を原作にした一篇(*4)にしても、ドイツの古典『プラーグの大学生』(1913)(*5)にしてもそうだし、黒沢清の『ドッペルゲンガー』(2003)だって言われてみれば分身の格好は執拗に実像のそれをなぞる。

 これに対して石井作品はどうであるかを見ていくと、妖しげな独自の符号が見つかる。すなわち石井の劇中においてドッペルゲンガー的な分裂が始まると、そこで決まって人物は脱衣をするのであって、まったくこの点も奇怪なことと言わねばならない。

 横穴の奥に瀕死で横たわっていた【赤い暴行】のおんなは、奪衣婆(だつえば)よろしく到着した追い剥ぎに衣服のすべて、下着の果てまでを奪われ素っ裸になるのだけど、これに合わせて実在のおんなもいつの間にか一糸まとわぬ姿で背後の幹に寄り掛かっている。『甘い鞭』にて対峙する実像と分身のおんな二人もそうであり、ほんのわずかの衣しか着けぬ半裸のさまで「風景」のなかによろよろと消えていく。

 『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)もまたドッペルゲンガー譚と似た面持ちだった。ここで言うドッペルゲンガーとは分身とか影法師の意味でなく、“離魂病”と記した方がしっくりするだろうか。自分という存在を抹殺したいと願うおんなと、つらい記憶を背負って自分を失った男が出会ってしまう話だ。舞台背景となる男の部屋、書棚の本がすべて後ろ向きに、背を奥にして小口を手前に晒して並べられた寂然たる住まいであったり、おんなが際限なく逃げ込む精神世界にしてもそうで、荒涼として深い陰影を帯びたものが劇の大半を縦断していた。人格を分裂させていくおんなが巨大な「風景」、地下の洞窟を従えて素裸で夢中遊行する姿の神寂しさが際立っていた。

 こうして視ていくと石井隆の「風景」とは登場人物と驚くほど密着したものであり、ときに魂の諸相と完全に同調してしまう。そうなると衣服以上の密着度を「風景」が手に入れるがゆえに、今度は衣服こそが異物となって排除対象とさえなるのだ。背後に控えた「風景」を切り除けて石井世界を語ることが、いかに危ういかが読み解ける。(*6)

 漫画や映画において起承転結の語り口ばかりが重んじられる傾向が強いが、石井作品は絵画空間にも似て、「風景」と人物、背景と物語は分離し得ないし、両者をふくめて語らない作家論は空振りに終わる怖さが潜んでいる。

(*1):「20世紀日本怪異文学誌―ドッペルゲンガー文学考」 山下武 有楽出版社 2003 
(*2): 同 93頁 引用元は「『怪奇性』の取扱について」、「鬼」(昭和27年3月)所載とある。
(*3):「エドガー・アラン・ポー短篇集」西崎憲 翻訳 ちくま文庫2007 「わたしの服に関しては真似するのは簡単だった。」(206頁)「男はわたしと同じような白いカシミヤのゆったりした斜め裾の服(モーニングフロック)を着ていたが、それはわたしがその時着ていたものと同じで、流行の裁断が施されていた。」(214頁)「予期していたようにかれはわたしとまったく同じ出で立ちをしていた。青いヴェルヴェットのスペイン風のマントを着て、腰には真紅の帯を巻き、そこに長剣(レーピア)を佩いていた。」(227-228頁) 
(*4): 『世にも怪奇な物語』 Histoires extraordinaires  William Wilson 監督ルイ・マル 1967
(*5): DER STUDENT VON PRAG 監督ステラン・リュエ 1913
(*6):この理屈をどこまでも延ばせば、衣服を脱ぎ棄てて真向かう私たちの夜の棲み処と愛の営みもまた‟風景”、ということになる。なんだか吉行淳之介あたりが書く内容のようであり、実際石井はそこまで明確に自作の風景に言及をしていないのだけど、少なくとも石井の作劇にとって舞台と気象、人物は同等の比重を持って描かれているのは間違いない。



“ドッペルゲンガー”(2)


  【おんなの街 赤い暴行】(1980)については少し前に書いている。(*1) 重複なるから詳しく触れるつもりはないが、劇中に描かれた崖をめぐって話をさらに進める上で、ざっと物語の輪郭を紹介するのが親切というものだろう。自死するおんなの話だ。妻子ある男との仲に疲れたおんなが薬を大量に呑み、故郷の鬱蒼とした森をさ迷い歩く。足がだんだんにもつれて、遂に歩けなくなって木の根元にへたり込んでしまう。そこは切り立った崖の縁(ふち)で、視線を横にやると同じように樹林を冠状にそなえた白い崖が目に止まり、そちらの崖の中腹には例の黒い横穴が開いているのだった。よくよく見れば穴に横たわる人影があって、おんなはそれがもう一人の自分と直観する。ふたりの名美は視線を交わし、物狂おしい時間を重ねて行く。

 劇の舞台となった崖はもしかしたらアルファベットのC、もしくはLの字のように湾曲していたかもしれず、ふたつと見えたのは間違いで最初から地続きの一体ものであったのだろうか。それならばそれで良いのだけれど、自作の背景描写に極端な写実を課していた当時の石井であるならば、CまたはL字の崖がこの世に実在するのが自然のように感じられる。ところが「佳景2」(それは「佳景1」も同様なのだが)に写されている崖は、ほぼ直線状に左右に展開しており、互いを視認し合える程も近い距離にて向き合ったり直角に接合するさらなる崖は見当たらない。

 この辺りは海沿いの平地ゆえ、川はうねうねと蛇行を連ねる。川筋の外側と内側では流速が変化し、浸食と堆積の不均等な現象が起きるから、片方に崖があれば反対側はなだらかな砂や石の堤となるのが自然であって、鏡像のように向き合った均質の崖は造られないのが道理なのだ。もし有ったとしても、中洲も含めた川底は二十メートル程も幅が生まれているから、それぞれに人が立ったとして相手の表情を探るのは到底難しい。やっぱりこの白い崖はひとつしか存在していないのだ、と、鈍感な私もさすがに了解した。石井は“無いもの”を描いている、いや、有るものを“二重にして”紙面に植えつけている。

 【赤い暴行】とは、ひとが生から死へ渡河する瞬間を描いた作品であり、その時主人公はもうひとりの自分自身を目撃するという点において一種のドッペルゲンガー譚であるのだが、特筆すべきは人物といっしょに「風景」である“崖”もまた分裂している点だろう。【赤い暴行】をよく読み込めば異常な展開であるのは一目瞭然なのだけど、薬で朦朧とするおんなの意識に没入する余り、その事を迂闊にも見逃していた。

 「風景」が人物にまとわりつき、人物の分裂(ドッペルゲンガー)にしたがい「風景」もまた分裂して寄り添いつづけるというのは、これはまるで見たり聞いたりした事がない【赤い暴行】にほぼ限定した現象であるのだし、ここを基点として映画近作もふくめて石井世界を振り返れば通底する場面が幾つか立ち上がってくるように思う。石井隆の「風景」とは何か、彼の描こうとする世界の規則性が鮮明になっていく。

(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2016/02/blog-post_7.html



“ドッペルゲンガー”(1)


 「佳景2」と題した場処は、石井隆の劇画作品【おんなの街 赤い暴行】(1980)にて背景素材となった崖である。これに絡めるかたちで“石井作品の風景”について思うところを綴ろうと思う。

 崖の中腹にはもともと小ぶりの洞(ほら)が穿たれてあったのだが、今は灰色のレンガ状の物で塞がれていて、目を凝らしてようやくその位置が判るそんな状態にある。「佳景1」と題した画像数葉は同一地点ではないのだけれど、生成の過程なり年代はかなり近しいと想像されるから、往年の崖と横穴の様子はこんな具合だったと考えても構うまい

 ほぼ垂直の十メートル程度の崖の途中、地上から二メートルから三メートルの位置に穴が開けられていて、土の成分によるのか、それとも軟らかい土質が根を下ろすのを阻むのか、雑草で覆い尽くされずに白い崖の大部分が剥き出しとなっている。

 黒い穴はいわゆる横穴墓(おうけつぼ、よこあなぼ)と呼ばれる古人の埋葬痕であり、丘陵や山裾などのやわらかい傾斜部を掘って造られるのが一般的であるけれど、「佳景1」と「佳景2」は共に川原に面して在るのが珍しい。わたしは学者でも何でもないが、雰囲気に惹かれて古い墓所や寺社を時おり訪ねるのを趣味としていて、これまで幾箇所か横穴墓群を覗いている。近くを川が流れている事はあっても、ここまで近い距離に水面があるのは知らないし、大概は地上から数十センチ、あっても一メートル近辺に穴が掘られている。その後、二段三段とその穴の上方の斜面を利用して次の穴が造られ、やがて蜂の巣状になることはあっても、こういう大人の手も届かぬ高所にぽつねんと穴がひとつだけ、もしくは一列に掘られていくことはまず見ない。

 この奇観が産み落とされたのは川に面すればこそ、と考えている。台風や長雨、もしかしたら津波による海水の溯上といった水位の上昇なり氾濫を配慮して、穴の位置は背丈より高い位置に決められたのではなかったか。そう思えば素直に合点がいく。石井世界と現実世界の接点をもとめて足を運んだのは違いないが、それ以上に見ることの愉悦を味わう時間となった。

 さて、「佳景1」と「佳景2」を目の前にすると、だから目前に青い川面が広がるか、それとも背後にせせらぎを聴くことになる。ここで三途の川だ、アケローン川 Acheronだ、と甘い連想に浸りたい訳ではなくって、そのような現実の地に立ちながらにわかに違和感を覚えるところがあって、そわそわと落ち着かなく周辺を見渡した。

 手元に持参した単行本「おんなの街」をめくりながら、実際の景色を比較する。おおよそ石井が撮影をした場所も特定できたのだけれど、そのカメラ視点は劇中この奇妙な崖にさまよい至った名美というおんなのそれと重なっていた。そのおんなは穴の開いた正面の崖とは別のそれの縁(ふち)に座っているという設定であった。

 もう一方にそびえる別の崖が、だから近くに在るはずなのにどうした事か見当たらない。石井が劇画作品と取り組む際には、最初に綿密な取材撮影が実行される点は以前書いた通りだ。(*1)勝手な思い込みと言われればそれまでだが、てっきり作品中の対峙する双子の崖が実在すると信じていたから、虚を衝かれてしばし言葉を無くし、角の取れた石で覆われた中洲に独りたたずんだ。

(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6894.html

2016年10月16日日曜日

“sense of wonder”


 道中の手慰みにと買い求め、列車の座席で漫然とめくった手塚治虫文化賞20周年記念誌(*1)が、予想外に胸にせまるものがあった。手塚が世を去ってから設立され、これまで多彩な描き手がその栄に浴している。手塚作品とその人柄について存分に咀嚼し、想いを馳せる受賞者の絵で綾織られ、特に手塚本人に向けられたまなざしにはにじんで熱を帯びる追慕の念が認められた。

 初めて目にする若い漫画家もいた。トップランナーの顔を知らないというのは恥ずかしい話で、歳月の無常に若干たじろぎもしたが、読後の歓びと愛おしさを黙っているのは惜しい気がした。誰かと共有したくて、漫画執筆を生涯の趣味と定める年長の知人宅まで持参し、半ば押しつけるようにして手渡したのだった。

 その際に君はこんなのが好きだろう、遠慮は無用、貸して上げるよ、と復刻本何冊かとDVD三本を預かった。中には驚いたことに、権藤晋が石井隆にしたインタビュウ「記憶の映画」に登場していながら鑑賞叶わずにいた邦画二本が含まれる。どういう導きでこうして目の前に立ち現われてくれるものか、嬉しさと不可思議を半分ずつ抱えながら家に帰り、早速それを眺めて過ごす休日となった。

 どちらも1950年代中ごろの作品で、石井がこれを公開時に観ていたとすれば十代になったばかりの多感な少年期に当たる。ヒトデ型の宇宙生命体が、青く濡れ燃える燐光を粘つかせて料亭や庭先といった生活空間に侵入する。一方はハエかアブほどに背丈が縮まった元軍人がぶんぶんと飛び狂い、凶悪な殺人犯罪を繰り返す、そんな内容の特撮映画だった。(*2)(*3) 

 センス・オブ・ワンダーという言葉が頭の奥で反響する。銀幕の向こうではまっしぐらに地球へと突き進む遊星が発見され、地殻変動と天変地異の激化が予測される。はたまた、凶暴な縮小人間に警戒するよう警察と新聞社が世間への周知を図るのだけど、それらをめぐって街が騒然となり人々が逃げまどう様子が点描されていた。それを観ながら、客席との距離がやや感じられる“夢物語”という意味ではなくって、見つめる人のこころの驚愕なり恐れとしてのワンダーをしきりに思う。

 テレビジョンは皆無に等しく、スマート端末もない時代であるから、劇中での情報伝達は自ずと新聞の活字や立看板、ラジオ放送に限られるのだけれど、現実世界においてもそのように視覚情報が極端に限られた時代に暮らしていた観客にとって、そして石井少年にとって、映画がもたらす凶々しい光景と音はどれほどの脅威であったろう。

 日本放送協会(NHK)と日本テレビがテレビジョン放送を開始したのが1953年(昭和28年)であるから、上の二本が作られた以前ではあるけれど、受像機の実質的な普及は皇太子御成婚のあった1959年を待たなければならなかった。石井の郷里仙台での初放送(NHK仙台放送局)は東京から遅れて三年後の1956年(昭和31年)であり、民放(東北放送)はさらに三年遅れの1959年(昭和34年)からの発信だった訳だから、石井の十代初め頃というのはテレビジョンが影もかたちも無かった日々と分かる。(*4)(*5)

 石井とはすこし年齢差のある私の実体験においても、テレビジョンという家電品は途中参戦組であったのだけど、我が家に現われたその頃は番組表も充実しており、朝から晩までたれ流される動画に家族は染まった訳である。歌番組やスポーツ中継も当然あれば、天気予報もコマーシャルも並列式に送られて来た。ほの暗い灯かりに浮んだ茶の間という日常が嫌でも目のふちに居座る訳だから、ブラウン管で対峙した動画の数々につき没入することなく、幼いながらも客観視して、情報媒体と認識することは至極容易であったのだし、むしろ現実とは異質の、いわば贋物の魅力に当初から酩酊していたように思う。

 私ら以降に生まれた人間の“動画体験”と石井世代の“映画体験”とは、だから抜本的にどこか異質なのではなかろうか。少なくともテレビが出現する以前の“映画”というのは、遠隔地の動く風景を映し出す唯一の媒体であったのだし、世間の目から隠蔽された犯罪なり性愛が束の間露出する淫祠(いんし)であった。食い入るように凝視め、千里眼を得たような愉悦と衝撃を観る側にもたらしたのではなかったか。

 もちろん人は刺激にすぐに慣れてしまう動物だから、大概の客は嘘を承知で座席を埋め尽くしていたろうし、劇場に足繁く通った石井少年だってそうだろう。当たり前のことだけども、銀幕と現実を混同して精神衰弱におちいる事はなかったのだし、異様に感化されて犯罪者の輪に加わることもなかった。しかし、たとえば近作『フィギュアなあなた』(2013)の公開時のインタビュウにて当時の映画体験の衝撃を「観客は映画を見て驚く事に純粋だったし、製作側も驚かす事に純粋だった。純粋に怖がらせて、純粋に歓んでいて、僕も純粋に映画の中、スクリーンの向こうを信じたし、純粋に恐怖の宝庫だと思って通い詰めていた」(*6)と執拗に語ってみせる意識というのは、石井の映画鑑賞が娯楽の域を超えた魔の刻(とき)、通過儀礼であった事を示している。

 実際、今回取り上げた“記憶の映画”の特殊撮影黎明期に作られたどこか微笑ましい映像を見つめながらも、思わず唸ってしまう凄惨な音と映像の饗宴が潜んでいた。それは椅子に縛られた状態で廃墟ビルの上階に捨て置かれ、その建物が地震と重力異常でがらがらと崩れ落ち始める恐怖と不安であったり、白昼、お堀端を歩いているおんなに突如背後から影が近づき、ワンピースの背中に刃物をぐっさり突き立て、痛みと困惑を眉間に刻んだ白い影がごろごろと堀の傾斜を転がっていく非情な場面なのだが、これらを観た十代はじめの少年の眼に世界は、そして映画世界はどのように映じたものか、さぞかし哀しく、むごたらしいものと信じてしまったに相違ない。

 結局、そういう「記憶の映画」体験の積み重ねが、少なからず石井世界の基礎土台になったというのも不思議はなく、つくづく石井隆とは映画の申し子であると思う。撮れば純粋に地獄をつくり、女優の手を引いて純粋に黄泉を歩かせたくなる。考えてみれば、これほど過去の映画に“呼応”する監督というのも稀有な存在ではないか。いまも映画界は優れた創り手を輩出しているが、ここまで映画のみに憑かれた人はそう多くはないように考えている。

(*1):「手塚治虫文化賞20周年記念MOOK マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たち―」朝日新聞出版 2016
(*2):『宇宙人東京に現わる』 監督 島耕二 1956
(*3):『透明人間と蝿男』 監督 村山三男  1957 
(*4):ウィキペディアに基づく
(*5): 「キネマ旬報」2013年6月下旬号「インタビュー 石井隆(監督) 映画という「死に至る病」」において石井は、「僕の家にはたぶん6歳ぐらいの頃にはテレビがあった」と答えるのであるが、その頃は放送が始まっていない。何も映らない受像機が置かれていたということであれば、それはそれで石井らしいエピソードになるだろうが、いずれにしても明確なのは石井の少年期は映画館の暗がりと共にあったという一点だろう。 
(*6):同記事 41頁




2016年9月9日金曜日

“無私の情熱”


 人づてに水木しげる特集の評論誌が出たことを聞き、ウェブで取り寄せて読み終えたところだ。「貸本マンガ史研究」という160頁ほどの冊子なのだけど、各執筆者が丹念に記憶をたぐり、また、強い敬慕の念をもって水木の創作世界と切り結んでいて読み応えがあった。(*1) 石井隆の読者には馴染みの梶井純や権藤晋(ごんどうすすむ)といった論客が集って作家性を存分に紐解いているから、その点でも興味深い内容となっている。

 水木が逝ってからこの半年、似たような企画の雑誌が書棚に出ては消えていったが、多くが妖怪草紙と玉砕戦の上辺だけを撫で回すのに終始していた。この本は一頁ごとに質量が宿り、趣きがずいぶん違っている。羨望すら覚える読書だった。ひとりの絵描きの死に際して、ここまで深慮にあふれた弔辞はそうそう編まれない。

 彼らは戦後すぐの貸本時代からの熱心な読者であり、特に権藤は編集者として至近距離から水木とその周辺を見つめ続けた訳だから、自ずとまなざしは紙背に透っていき、作品の核たるものを浮き彫りにする。混迷の歳月を生きぬいた男、武良茂(むらしげる)という一個人を凝視し、その体内に溶け込むようにして想いを巡らしていく。ベタ塗りされた墨の向こうに潜むささやかな希望や怨嗟をありありと誌面に定着させる筆力があって、これを読むと読まないでは作家像はかなり違ってくるように思われた。

 私が水木しげるにこだわっているのは、石井隆を読み進める上で避けては通れない作家と思うからなのだけど、その辺りの詳細は権藤もしくは山根貞男がいずれ世間に紹介してくれると信じるから、今は読者ならびに観客の目線に戻ってこの冊子「貸本マンガ史研究」の読後感を綴るにとどめようと思う。

 水木について語られる文章を目で追いつつ、不安というか恍惚というか、ちかちかと瞬いて首を絞めにくる諦観が入り混じった気持ちになった。執筆者のずっと下の世代にわたしは属しており、彼らの経験したものの何分の一しか記憶の蓄えがない。昭和二十年代や三十年代の空気をよく知らず、四十年代も地上付近の匂いをようやく嗅いだ程度であるから、こんな自分に水木しげるを、いや、他の先達をふくめて何か語る資格はないという気持ちを引きずっている。本音を言えば、年長者にはどうしたって敵わないという気持ちが常にある。

 権藤や梶井たちから少し遅れて生を受け、同じ政治の季節を過ごした作家が石井隆だ。その時代性を正しく理解し、分かりやすい言葉に転換し得るのは、もしかしたら彼ら世代以外には在り得ないのではないか、という思いがしこりのように育ってしまう。中でも権藤によってこれまで発表された石井劇画と映画に対する言及はまったくもって適確と感じるし、文節のひとつひとつが真っ直ぐな実弾となって射出され、おまえは全然見えてないよね、その目は節穴だなと胸を貫く。もっとも毎度毎度の被弾が心地好いからこそ、こうしてその名を書き綴っている次第なのだけれど。

 銃創に怖々と、いや、幾らか嬉々として触れて頭に浮ぶのは、単に時代認識だけでなく、石井隆とその作品を語るスタンスというのは彼らのそれこそが正解であって、ここまで熟考し、粘り腰で磨きに磨かなければ、厚く層の堆積なった石井隆という稀人を“知ること”には至らない、という思いだ。

 指先でプラスチックの部品を押し叩けば、こうしてモニター上には即座に言葉らしきものが連なる昨今、光の粒の集積と明滅を頼りにして、世界中の誰もが割合と気ままに、それほどの資金を投じることもなく文章を開示することが可能となっているけれど、その電気的な現象と作家の真の評価というのは天と地ほども開きがあって、両者の隔たりは容易には埋まりそうにない。
 
 以下はこの号で水木作品を考究するにあたり、権藤が半ば出版業界に半ば読者に向けて説いている評論の心得なのだけど、これなどはまさに私のような半可通に対する銃弾として機能していて、読んでいて相当に痛かった。

「(他者の作品を)発想のヒントにしたらしいという指摘もあるが、何々にヒントを得た、何々に触発されて、何々から剽窃したといった、マニアの間のざわめきは、現実の作品を論ずる場合、いかなる意味ももたない。」(*2)

「今日まで数多くの“水木しげる論”を目にしてきたけれど、石子順造、梶井純、左右田本多、宮岡蓮二らの論考を除いて価値のあるものはひとつとしてなかった。右にあげた人々の論考がなにゆえに価値あるものであったかといえば、作品の本質に、あるいは作者の思想にどれだけ迫れるか、に力点が置かれているからである。そこでは、手前勝手な、恣意的な読み込みは極力排除され、批評にとって最も大切な“無私の情熱”が感得された。それは、作品や作家を第一等に尊重するという姿勢に貫かれていたことを意味するだろう。」(*3)

「手前勝手な、恣意的な“水木しげる論”の大多数は、ひたすら〈私性〉を露わにしているにすぎない。一見、マンガに即して語られながら、その実、己の〈好み〉が披瀝されたにとどまる。(中略)作品にとって本質はただひとつであり、従って、手前勝手な、恣意的な解釈は余分の価値以外ではあり得ない。なにゆえに、私がこうした事柄に言及するかといえば、水木しげるの作品が無限に拡大解釈されているからに他ならない。だからといって、石子や梶井らの論考が〈絶対〉であるといっているのではない。水木しげるの作品もまた、つげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないと思うのである。」(*4)
 
 私性と好みを慎重に排除した上で情熱をもって作品に接し、作家の私性や好みこそを第一に読み解いていく。真の評論におけるその絶対性が語られている。私などはもう悲鳴を上げて詫びるしかない。「感想」レベルの駄文とはぜんぜん次元が違うものだと論されている。

 だからこそあれだけ美しい作品解説が産まれるのだな、見習わなければならないと考えつつも、御覧のとおり、私性と好みという二本の櫂でようやく進んでいる小船のごとき有様であるから、さてどうしたものかと首をかしげてしまうのだった。水木作品をつげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないというのは異存がないし、石井隆の世界をやはりつげ義春と同じ地平に置き、その本質を探る姿勢もおそらく正しいだろう。方位だけはしかと定まるところでもあるので、今はギコギコとそこに向かって、漕げるだけ漕いで行ってみようと考えている。

(*1): 「貸本マンガ史研究」 第2期04号(通巻26号) 貸本マンガ史研究会 2016年8月15日発行
(*2):「家、ムラ、天皇制のもとで」 権藤晋  同 53頁
(*3):「水木マンガを読むために」 権藤晋 同 103頁
(*4): 同 103-104頁

2016年8月16日火曜日

“怪獣”


 夏の興行で気を吐く怪獣映画(*1)を観に行った。膨大な書き込みが今もソーシャル・ネットワーク上で進行中で、作品そのもの以上に世間の反応にまず驚くひと握りの人間の夢に何万、何十万もの人間が揺り動かされ、果てることなくざわめいている。称賛と同時にひどい言葉でけなされても、すべてを悠然と受け流して黙って見返している映画というこの媒体自体が、そもそも人智の及ばぬ領域のもの、神懸りした得体の知れぬ物なのだろう

 さて、こちらの映画の冒頭では、愛する家族を奪われた孤高の老科学者が東京湾上の小船から忽然と身をくらましている。入水したのか何なのか最後まで判然としないが、彼の怨みなり使命を託されたらしい水棲怪物が突如として出現し、関東平野に上陸、列島を北へ北へと縦断し始める。探せば話の種がいくらでも見つかる作品なのだけど、物語の大筋は家族の喪失と遺族の復讐譚なのであって、それも人間にあらざる者が敵討ちの役割を負う点が往年の化け猫映画にどこか似ているように思われ、いつしかそこに気持ちの先が集中している。

 公開時に生まれてなかったり、寝ていて悪夢にうなされぬよう親が慮った節があって、正直言えば映画館で化け猫を目撃していない東宝や大映の怪獣ものには足繁く通ったが、四谷怪談や百物語に代表される幽霊や妖怪ものは巧妙に遠ざけられて後回しとなってしまった。化け猫は石井隆のインタビュウに顔を覗かす常連であるのだし、権藤晋が聞き手となった「記憶の映画」にも題名を連ねていたから気にはなっていたけれど、DVDを入手して実際に観たのはごく最近のことだ。それも入り江たか子が主演するたった三本でしかない。

 わずか数本を生かじりした程度であるから、先の黒い怪物と化け猫とを対比して大口をたたく資格があるとは思えないが、両者が道理をわきまえぬ“動物”の一種であって、感情や感覚の明暗はあっても十分に善悪を解するには至らぬ点は似ているように思うし、それ故に誰かほかの“人間”に仮託された復讐劇と比べて、周囲に及ぼす破壊と騒動がより一層大きく膨れる点も合致する。

 私が観たのは『怪談佐賀屋敷』、『怪猫有馬御殿』、『怪猫岡崎騒動』(*2)なのだけど、特に最初の二本は素地である猫の本性そのままに妖怪が大暴れする感じが愉快だった。三作目の『岡崎騒動』は猫よりも亡者の霊魂が前面に出てしまい、毛色の違う幽霊噺に収縮したのが残念だったが、演じる方も演じさせる方も手探り状態の最初二作の混沌ぶりは壮絶至極であって、これならば少年石井隆の心をがんじがらめにしたに違いないと合点がいく。

 首吊りしたおんなの白い影であるとか、夜叉の様相でにじり寄るおんなとか、雷鳴と稲光であるとか、斬られた弾みで宙を飛ぶ生首であるとか、後の石井世界、たとえば『GONIN2』(1996)であるとか【デッド・ニュー・レイコ】(1990)に通じる驚愕場面の釣瓶打ちであった。深夜に流星群を追うと、時にまばゆい光を四方に散らせて、ばっと砕けるようにして消えていく火球がある。理性なき者が暴れ狂うときの剛力というのはあれに似て、劇場の暗闇を絶対的に支配し、観た者の脳髄に強烈な残光を焼き付ける。

 こうして脳内で石井隆の劇と化け猫ものを比べる時間を過ごせば、『GONINサーガ』(2015)の森澤という若い警官(柄本祐)に代表される孤児たちの境遇だって、一匹だけ生き延びて妖怪化する飼い猫と妙に似ていて、だんだんその顔が猫そっくりに見えてしまい、どうも全てに渡って血脈が通うように思われて仕方がない。近年の石井作品の骨太なおんなの造形についても、通底するイメージをそうっと潜ませていないかと勘ぐってしまう。妄想以外の何ものでもないのだが、石井作品に宿る独特の力を考えていく上で、往時の化け猫映画を結線させることは無駄ではないと思われる。

 石井は劇画作品に時おり常軌を逸したおんなを描いてきた。【愛の景色】(1984)だったり【ジオラマ】(1991)がそれなのだけど、脚本や原作を提供するかたちで世に出した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)や【20世紀伝説】(1995 たなか亜希夫)にて狂える名美をいよいよ登場させている。ただ、この時点ではまだ悲壮観がつよく漂うばかりの見姿であった。おんなから理性や感情を奪い、退行をもたらしており、どちらかと言えばこの時の狂気は、名美というおんなの体内に侵入した病魔の位置付けに留まっていた。

 魂の軌道を外れ、奇声を上げて刃物を振り回す姿は異様な醜さがあるものの、まだまだ人間存在のはかなさを身に纏った存在なのだった。ところが2004年の『花と蛇』以降の石井の劇では、針は振り幅を大きくしているのであって、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)や『フィギュアなあなた』(2013)に至っての狂人描写は、堂々たる押し出しを具えて胸を張り、立ちはだかる物に抗して猛進する構えだ。庇護されるべき精神迷走の状態に陥っているのではなく、まっしぐらに変容の道を極めようとする覚悟がともなう。タフな面相を同居させた美しく強い狂人が出現し、銀幕を支配している。

 創り手にどのような心理的な変遷があったものか、当時あれこれ想像を巡らせた私たちであったが、石井のこころの奥に究極の美として化け猫がずっと佇んでおり、これに拮抗する発明として、超常現象の手段を取らずに究極の悲しみを発端とする狂気が劇中に配された、という捉え方も十分可能と思う。善悪を行動基準に定めず、感情の明暗だけを烈しく追い求める。人間に仮託された復讐劇と比べて圧倒的な破壊力を秘めた超人=狂人のそれを描きながら、石井隆は映画の魔性の極大値を模索している。


(*1):『シン・ゴジラ』総監督 庵野秀明 2016  
(*2):『怪談佐賀屋敷』 監督 荒井良平 1953
『怪猫有馬御殿』 監督 荒井良平 1953
『怪猫岡崎騒動』 監督 加戸敏 1954



2016年7月31日日曜日

“サバイバーズ・ギルト”


 かつて栄華を誇った領主とその一族の霊廟を訪ねた。俗世間から隔絶した山の中腹に位置し、参道脇の夏草が緑あざやかに茂っている。杉木立の太い幹には蔦漆(つたうるし)が盛んに絡んで、ぐるぐると螺旋を描いて空を目指していた。自分の住まう地域とは違った景色で面白く、ずいぶんと温かい街なのだと再認識する。

 草木が活性している分、ようやく辿り着いた廟の方はちょっと気圧される具合であって、想像よりちんまりして見えた。何とはなしに淋しいのは本殿の扉が固く閉ざされたままだからで、遮蔽された視線が行き場を失って宙をさまようせいだ。無表情の書庫という連想がしきりにした。衆生の身で何を言っても始まらないが、どうやら此処は魂の交信を夢見るところではない。

 唯一視線が滞空したのは、黒塗りの本殿の脇にたたずむ雨ざらしの石塔であって、数は十基以上に及ぶ。据えられた説明板を読むまでもなく、すぐに洵死者の墓と分かった。彼らの視線は主君の眠る本殿へときつく縛られたままで、私たちなどまったく眼中になさそうだけれど、その生前最後の日々を透視すれば途端に石の表面に粘り気の有るものが付着して感じられ、血の臭いと寒気を覚えた。

 さすがに現代では殉ずるに値する主君など見当らぬが、肉親なり異性を愛し過ぎて頭が変になる事は誰にだってある。その苦悶の涯てに待ちうける終局は如何なるものか。昔もいまも幽明の境越しに綱引き合戦が繰り返され、身罷った者をはげしく追慕するあまり、自らの手で命を絶ってしまう者がいるのだし、その逆に死者が生者のかたわらに舞い戻り、蜘蛛が羽虫をからめ捕る具合にして冥界へと連れ去ったりもする。後者については主に映画や演劇で目にするしかないけれど、正しい正しくないといった尺度は通用せぬ妖しい命の往還が私たちの周りには散りばめられる。

 彼ら昔日の渡河者の末路そのままの道を私たちがこれから歩まないと、いったい誰がどうして断言出来よう。当たるかどうかは分からぬが他人の為した行いは、どれもが予言みたいなものだ。いのち尽きるその瞬間まで固唾を飲んで辺りを見渡し、ひたすら即興劇の出番を待つより仕方ないのだ。

 石井隆の作品はこの点どうだったかを振り返ると、多くが生の充溢を手探るうちに迂闊にも死の棘に触れてしまい、抜き差しならなくなる顛末であって、まさに綱引き合戦のフィールドに踏み入った観を呈するのだが、劇中人物の川越えの様子をつぶさに見ていけば、無謀すぎる行ない、つまりは“自殺的行為”こそ見られるものの、思いのほか直接的な自死という終幕を持たないのだし、霊に憑りつかれて頓死を遂げる明確な表現も見られない。殉死、後追い、破滅的心中といった自らの手によるところの幕引きはあまり見当たらない。

 長年に渡って石井世界を見つめて来た人は多分ここらで首をひねるはずだ。劇画にはタナトス四部作があるのだし、【雨のエトランゼ】(1979)の名美もいる。そこから派生した幾たりもの投身者はどうするつもりだ、おいおい、ふざけるなよ、海の底に消えていった『ヌードの夜』(1993)の余貴美子だって居るじゃないの、だいたい『GONIN2』(1996)冒頭の多岐川裕美の明らかな形をおまえはどう見るのよ。

 言われてみればなるほど相違ないが、前にも書いた気がするけれど石井隆の劇の基調というのは自壊する刹那に強く閃光を発する生命力であるとか、墜ちようのない処まで墜ちた末にいよいよ発生する浮力といった、本来あえかなるものを渾身の筆づかいで描こうとするのであって、ひたすら墜ちた先に広がる暗黒の奈落を目的地と定めてはいない。

 たとえば『GONIN』(1995)の閉幕にて愛する者を喪い、寄る辺なき身となって高速道を遡上するビートたけしと本木雅弘が、虚ろなまなざしを互いに注ぎつつ銃弾を放ち、相撃ちとなって椅子に沈んでいっても、あのとき、彼らの待ち望む終着点は死そのものであったとはなかなか断じ得ない。最終的に両者の生体活動は全停止するのだけれど、希望叶ってそうなったかと言えばそれはどうも手ざわりが違う

 また、『甘い鞭』(2013)で袋小路に陥った壇蜜に対し、遂に面前に佇んでみせた若い時分の己の姿、つまりは黄泉の使者ドッペルゲンガーたる間宮夕貴へと向かってぬめ光る凶刃を握り締めながらようやっと歩み寄る場面がある。こりゃ間違いなく刺すな、自死をもって魂の幽閉を解くより道は残されていないのだな、と観客が半ば諦めて凝視する中でまさかの奇蹟が噴出し、寸でのところで終局を回避するあたり、間違いなく石井の死生観には自死行為を良しとしない一種独特の闘いのポーズが根付いている。無尽蔵の死を描きながらも誰もが死を目指していない、という特殊なスタイルであって、石井隆を語る上でこの点は大切なところだ。

 なんでくだくだしくこんな話をしているかと言えば、私の奥で近作『GONINサーガ』(2015)が今もって木霊を響かせるからだ。柄本祐が演じる森澤という名の警官が気になっている。物語が進むにつれて男の過去が明らかとなっていくのだが、十九年前の雨の大殺戮の現場で夫を喪ったおんな、つまりは森澤の母親は、追慕する余り事件から一年後に練炭による親子心中を企てる。おんなは亡くなるが、物語の回転軸となる息子の方は生き残ったという設定である。殉死の否定という刻印が思い切り押されている。
      
 前作『GONIN』と姉妹篇の『GONIN2』(1996)のスタイルを踏襲した群像劇として『GONINサーガ』は綿密に綾織られたのだったけれど、前作の劇中人物の係累(子供たち)を主役に据えたことにより、母と子のペアが次々に増殖して収拾が付かなくなった。物語をすっきりと見せるための剪定を石井は強いられてしまい、練炭自殺という手っ取り早い手段を使って頭数を削ったのだ、という解釈も当然成り立たなくはない。しかし、これまで石井の劇を観続けた者としては別の波長が放たれて見える。

 石井世界において心中はゼロではないが、燎原の火ほどの勢いはない。むしろ稀有な出来事に数えられる。それだから直ぐに結線を果たす次第なのだが、石井は森澤というキャラクターに【天使のはらわた】(1978)の川島の遺伝子を注入していないか。川島の母親は深く思い悩んで、娘の恵子を道づれにして鉄道自殺を図るのだった。異常を察した恵子はぎりぎりのところで線路脇に逃げ、母親だけが轢死してしまうのだが、生き延びたその事が負い目となって兄と妹のその後を苦しめる。

 【天使のはらわた】の川島哲郎という男は同じく哲郎という名を持った村木の前身であるから、実質的に森澤には村木的な面立ちや思考が宿されたと了解すべきだ。役者の細い顎やすべっとした肌、繊細そうな髪の質感や流れ具合と私たちの内側に定着した村木像とがなかなか重ならず、ついつい見逃してしまう点なのだが、彼を村木と捉え直して『GONINサーガ』を見返せば、さまざまな場面が息を盛り返し、馥郁とした香りを発し始める。

 素性を隠して暴力組織に潜入する『夜がまた来る』(1994)の村木像が再現されるのだし、日陰で声をひそめて暮らす女性を訪ね、真摯に耳を傾けていくフリーのライターとしての『天使のはらわた 名美』(1979)等の村木のいでたちな訳であって、風体と役割の多重性から言っても、石井が森澤に託す想いというのは相当の比重であった。村木役者の代表格である根津甚八が不自由な身体を押して再戦し、満身創痍のその身を横たえる病室ベッドのかたわらに村木の系譜の森澤が寄り添い続けたことは、構図的にも物語的にもさらに密度を上げるところがあって、つくづく凄味ある次元をかたち作っていた。

 根津甚八の現実と役どころが共振し、それをもう一人の村木がサバイバーズ・ギルトに軋んで悲鳴をあげる背中を丸めて見下ろしている。この病室の描写を物語の単なる中継地点と見るのではなく、石井世界を横断投射する幾筋もの光が結像した一瞬と捉えることは可能と思うし、むしろ自然であるだろう。

 『GONINサーガ』は登場人物がことごとく死に絶える大団円を迎えるが、そこには病的な鬱血は認められず、どこか清清しい血潮が巡っていた。愛する存在に先立たれようとも、苦境に息が上がるとも、目指すゴールを死とは定めずに生きられるだけ懸命に生きていく。墓標の下に眠ろうといまだ欲せず、地面を蹴って歩みを開始するのが石井隆であり、その子供たちであって、詰まるところ石井の創作を貫くものは「不死性」とも言えるだろう。







2016年7月10日日曜日

“傳説と奇談”


 木綿わたが夜空くまなく覆って、町がゆっくりと蒸されていく。湿った空気が居座って西から東へと風が幽かに渡っていくが追い払えず、鬱陶しさが増していく。ブロック塀下の雑草の蔭からは、時おり、ちい、ちい、と、赤子の声にも似たの鳴くのが湧いて来る。こんな宵闇に人は雷球や狐火を目撃するのだ。まだ見たことは無いけれど、いつか彼らと出くわして大そう肝をつぶすに違いない。季節の端境には不安定な心持ちとなり、怖い物を避けたくなると同時になぜか妙に惹かれてしまう。

 怖いと言えば、「別冊新評 青年劇画の熱風 石井隆の世界」(*1)の巻末に載せられた石井自身による年譜には、常々気になって仕方なかった箇所がある。七歳から十三歳までの少年期をまとめた短文で石井は「床屋での待ち時間に、置いてあった「伝統と奇談」で芳年の「奥州安達ヶ原ひとつ家の図」や伊藤晴雨の絵を目撃、興奮治まらず、目の裏に長く焼きついて離れず」(*2)と書いている。

 月岡芳年(つきおかよしとし)と晴雨(せいう)、ふたつの名は石井の対談やインタビュウで顔を覗かせる常連だからそれ自体に驚きはない。世間によく知られたあの縦長の絵、荒縄で縛られ半身着物を剥ぎ取られ、哀れ天井から吊り下げられたおんなの苦悶の様子に石井はそんな早い段階で出逢ってしまったのか、さぞや仰天したことだろうな、三つ子の魂百までとはこういう事だな、そんな風に軽く読み流せば良いのだろうけれど、何となく「伝統と奇談」という題名にはしつこい重力と強面の風情があった。無言のままで背後に居続ける、そんな気配にずっと囚われ、三半規管がやられて五度ほど身体が傾いた気分を振り切れずに過ごした。

 調べてみると「伝統と奇談」とあるのは誤植であり、正しくは「傳説と奇談  日本六十余州」という本なのだ。今で言うなら広告が喧しくて記憶に厭でも残るデアゴスティーニ、ああいった分冊形式の販売であって、別巻まで根気強く買い求めた末には十八冊にも膨れあがる。列島北から南までが並び揃って、それぞれの地方に根付いた因習や伝承を網羅する流れだ。

 手元にあるのは昭和42年(1967)から翌年にかけての発行と奥付にあって、石井の年譜とずれがある。妙であるからもう少しだけ手を伸ばして探ったところ、装丁の異なる前年発行の薄手のものが直ぐに見つかった。さらに調べるともっと古い物も在るらしく、どうやらこの「傳説と奇談」という冊子は加筆や削除を繰り返しながら版を重ね、時期を何度か見計らっては頒布されたらしい。

 この前の休日は珍しく朝から晴れたので、これを利用してごっそりと冊子を両手に抱え出し、日なたでの読書を決めこんだ。もともとこの手の民間伝承は嫌いではないが、夕暮れてからはあまり読みたいと思わない。面白い時間だったけれど、それより何よりおのれの目が少年石井のそれとなり、驚愕や畏怖を追体験できる事が嬉しくって気持ちをはやらせた。頁をめくる毎におどろおどろした図版が立ち上がり、この本の存在をあえて年譜に刻んだ石井の意図が何となく伝わるところがあった。「傳説と奇談」には膨大な画像が掲載されてあるのだが、芳年と晴雨はここでは別格扱いとなっているのが分かる。

 とにかく古い本なのだ。鮮度はとうの昔に失われている。昭和三十年代の前半に組まれた頁がずるずると流用され、半端な記述ばかりで資料的価値はほぼゼロと思われる。写真はいずれも平坦で、明朝体で組まれた題字も精細さを欠き、不要な余白ばかりが目立って雑然として見える。もっとも当初から学術書を作るつもりもなかったろうし、読者にしたって漫画や紙芝居の延長として買い求めたに相違ない。

 今こうして半世紀の時間越しに眺めていくと、唯一あちらこちらに点在する錦絵と遠近法のやや狂った水彩の挿絵には独特の息吹が宿って感じられ、写真と違って絵筆には底力があると唸らせられる。喜多川歌麿、歌川豊国、それに国芳も交じるのであるが、圧倒的に目立つのは晴雨の絵であるのだし、表紙の多くが芳年であって、両者は全集を牽引するメインの絵師として位置付けられている。

 石井が手塚治虫に傾倒していたことは知られた話であるが、漫画とは趣きの異なるこうした一枚絵と向き合ったのも同じ時分であったろう。こうして大量に、それも一気呵成に物語絵との対面を果たし、むら立つ武士、グロテスクな式神、跳躍する天狗、虐げられた娘、魔性のおんなたちからの鈍い放射熱をゆるゆると吸収していった事実は、石井の作歴を考える上で興味深いことだし、もしかしたら極めて大切かもしれない。

 手塚の漫画が台頭し、そこに映画的な躍動が注入された。疾走する車、雲を突き破るロケット、地中を掘り進む特殊戦車のけたたましい動きは、背景描写を時に溶解させ、時に黒く塗りつぶして流動性を確保するに至ったが、ある程度の表面積を得ながらも一枚切りで、つまりはひとコマで勝負せざるを得なかった往時の錦絵や挿絵の描き手たちは、空間の拘束からどうにも逃れ得なかった分、結果的に大気や風雨、草や枝葉を大量に多層的に塗り込み、活き活きとした環境を提示することに骨折っている。

 人物描写の巧みさもさることながら、画布の隅々を満たしたアトモスフィアを味方にし得る者だけが大衆の視線を獲得して、人気を博していった次第であって、詰まるところそれは石井の劇画、ひいては石井の映画と通底する描写と思う。

 石井が劇画家として生計を立てはじめた最初のころ、雑誌向けの挿絵やカットを描くことが多かった訳だけど、これと並行して画集「死場処(しにばしょ)」(1973)を完成させ、胸に大事携えて出版社を巡っている。草むらの葉や茎、湿った畳の目、柱の木目といった細々したものを丹念に描いた、各々独立した絵が脈絡無く並んだ集合体として「死場処」はあったが、これと類似する手触りの石井の初期作品として、幾人かの絵描きとの共作となるが、子供向けの妖怪図鑑の挿絵があった。あれなども恐るべき集中力と繊細さを感じさせる絵が並んでいた訳だが、私は「傳説と奇談」をめくりながらどうしてもこの二冊を思い出さずにはいられない。(*3)

 思えば幽霊や妖怪を描くとはどういう事か、自ら筆を持って白い紙に向き合ったつもりで考えるならば、それは対象物を描く以上に現象と空間を取り込む作業となる。どうしようもなく不安にかられる樹々のでこぼこの肌であったり、剥がれ落ちつつある漆喰壁であったり、稲光や雨の勢いであったり、衣服の妙な具合の膨れや皺であったりを描きに描いて、ようやくこの世ならざる光景が垣間見られる。異界の者それ自体の造形と共に崩されていく日常こそが大事であって、その舞台の密度がともなわないと視るものを捕らえて引きずることは難しい。

 石井が述べている芳年の「奥州安達ヶ原」にしてもそうで、誰もが不幸な妊婦とそれを見上げる鬼婆に視線をがんじがらめにされるのだけど、壮絶な状況描写を支える背景の造り込みにも同等に着目しなくてはならない。おんなの乳房の背後に穿たれた壁の亀裂や、右手の窓の奥に咲く夕顔の花の白さは作為に溢れ、観察者のこころに侵入していたく刺激する。視線の滞空を延ばし、いつしか一枚絵には時間が宿って鼓動を刻み始める。

 タナトス四部作に代表される劇画と監督映画のいくつかには、妖しげで何処か哀しい霊的現象がちりばめられているけれど、もしかしたらそれ等は石井の一部というより本質なのではなかろうか。白く光って糸を引きながら次々に飛来する雨粒、それが作る水紋、雷鳴、奇妙な影、奇怪に林立する柱、禍々しき壁の亀裂。石井が「傳説と奇談」を通じて学んだことが映像となって開花している。それを背後にして、予想し得ない人物がぬっくと立ち現われる。もちろん芳年と晴雨、ビアズリーや伊藤彦造その他大勢の画家の巧みな人物の描写に舌を巻き、いつかこういった姿態、こういった表情をものにしたいと願ったのは違いなかろうけれど、それ以上に幼な心を鷲づかみにした絵の力に石井は心服し、鍛錬を続けたのだ。

 生活者の背面に控える自然や日常の変質を通じて、ようやく突破なる局面が物語には潜み、そこに至って初めて醸成される深い恐れや強い悲しみの在ることを石井は信じている。だからこそ、ひたすら雨を呼び、照明の加減や風合いに凝り続ける。絵師としての視線が其処には一貫して注がれている。

(*1):「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979
(*2):ウェブで開示されている図書館の蔵書情報を手探ると、1959-1960、1巻1号 (昭34.5)という記述があって、これがどうやら初版らしい。これだと石井の年譜とぴたり整合する。 
(*3):「とてもこわい幽霊妖怪図鑑」 草川隆 朝日ソノラマ 1974





2016年6月19日日曜日

雪原(4)


 はたして川端康成の「雪国」は石井世界と直結するのかどうか、此処から先はどうしたって足が鈍る。先ずもって石井が何時どのようにして「雪国」と接触したか、小説なのかそれ以外か皆目分からない。出逢っているのは違いないのだけど、さまざまなバリエーションを映画やテレビジョン、舞台の上に展開させてきた作品であるから、読み手の印象はどの媒体に拠ったかで相当違ってくるだろう。「雪国」の総体をつぶさに見比べ、さらに石井の各作品と照合するのは困難は話で、これ以上の深掘りは諦めざるを得ない。(*1)

 そもそも男とおんながいる限りにおいて、「雪国」的な情景は日々この世界に星のごとく生まれては消えていくのであって、小説に限って言っても手繰っていけば似た場面がすぐに見つかるだろう。特別視しては滑稽だし、他人が磨き上げた水晶玉の内側に石井の劇が小さく収斂されることなど、考えてみれば最初から有り得ない話で、仮に「雪国」の影響があったとしても、それは肩に降り立った雪片程度の重みでしかない。いい加減、この辺りで話を打ち切らないと笑われそうだ。

 
 備忘録を兼ねて、最後に二点のみ書きとめたい。ひとつは繭蔵の二階から落下した葉子という娘の解釈。ある人は「葉子の終焉が果たして死なのか、あるいは狂気なのか、小説「雪国」は明らかにしていない。失神した彼女を抱いた駒子は「この子、気がちがふわ」と叫ぶから、たぶん狂女として生きのびるのであろう」(*2)と書いていて、確かに川端の本意はそこであろう。最初に映画化された折りに八千草薫が演じた葉子は、顔面に大火傷を負った姿で幕引きにも現われていたけれど、あれなどは随分と歪曲された演出と感じられる。「島村はやはりなぜか死は感じなったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた」と原文にもあるから、葉子はその身を狂気にゆだね、一線を越えて業火に身を投げたと捉えるのが正解となる。

 それにしても小説の冒頭で「悲しいほど美しい声」を発し、「澄んだ冷たさ」を同居させていた娘が、巻末ではその「内生命を変形させて」狂ったまま生きのびていく状況というのは、まったくもって酷い話であって、小説家というのは怖ろしい思考回路をしていると唖然とするより他ない。2004年以降の石井隆の映画には、狂気へと緊急避難するしかなかったおんなが続出するのだが、その原石のひとつとして、「雪国」の葉子が石井のこころの奥のどこかに佇んでいる可能性が(雪片程度の確率で)あるだろう。

 また、「雪国」の劇中で男とおんなの間にちょっとした言葉の行き違いがあり、おんなが激昂する場面がある。読みながら、人が人と触れあい、心根を語っていくことのどれだけ繊細で困難な作業かを考えさせられる事しきりだった。男の気持ちに悪意は潜んでいなかったが、安易に用いた言葉がおんなの精神をひどく迷倒させる。(*3) 

 偶然にもそのやりとりは、以前に調べた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 曾根中生)での台本改訂箇所とそっくりであって、あの映画での名美は「雪国」の駒子と違って怒りに我を忘れることはなかったのだけど、それは演出家がそこまで気が回らなかった為であって、石井自身が自ら指揮していたら、やはりあんな不用意な発言は村木に許さなかったと思われる。「君はいい子だね」と「君はいい女だね」に天と地の開きが「雪国」に生まれたように、石井が「女(ひと)」と書くときはあくまでも「女(ひと)」であり、「女(おんな)」とは別次元なのだが、あの映画の監督はそんな事は蹴散らして進むひとだった。そこまで細かなところに心を砕く点から言っても、石井隆は川端の血筋に当たる。私の人生に川端は寄り添わなかったが、後継者と信じ得る存在とこうして併走し、精緻な伽藍が建立なっていく過程を日々見上上げることが叶うのは、つくづく幸せで嬉しいことだ。

(*1):主な作品 ウィキペディアより
映画『雪国』(東宝)監督 豊田四郎  出演 池部良、岸惠子、八千草薫 1957 
テレビドラマ『雪国』(NET)若原雅夫、小山明子、矢代京子 1961
テレビドラマ『雪国』(TBS)池内淳子、山内明、岸久美子 1962
映画『雪国』(松竹)監督 大庭秀雄 出演 岩下志麻、木村功、加賀まりこ  1965
テレビドラマ『雪国』(NHK)中村玉緒、田村高廣、亀井光代 1970
舞台劇『雪国』 芸術座 若尾文子、内藤洋子 1970 
テレビドラマ『雪国』(KTV)大谷直子、山口崇、三浦真弓 1973 
(*2):「川端康成研究叢書5 虚実の皮膜 雪国・高原・牧歌」 川端文学研究会 教育出版センター 1979所載 『雪国』の作品構造 上田真 91頁

(*3): 島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね。」
「どうして?どこがいいの。」
「いい子だよ。」
「そう?いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。(中略)

駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青さめると、涙をぼろぼろ落した。
「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は145-147頁

雪原(3)


 
 石井自身が時おり口にするように、スターシステムを採用した石井の劇画作品群を俯瞰すると、名美と村木という宿命の男女が延々と為す地獄めぐりの観を呈する。さながらダンテの「神曲」での道行きに似た面持ちなのだけれど、ここでいう「神曲」の景色とはウィリアム・ブレイクWilliam Blakeの手による夢現の水彩画ではなく、暗くて色彩のないギュスターヴ・ドレPaul Gustave Doréの版画を想起しなければ嘘だろう。大袈裟でもなんでもなく、紙面上に刻まれるのは世界を構成するあらゆるもの全てであった。岩肌や林、霧や小船に至るまで、視角に映り込むものは何もかも、さも面前に在るがごとく緻密に描かれたドレの地獄と、どこか漂わす気配を石井世界は同じくしている。

 承知の通りそれは、石井の目指すところが漫画以上に“映画”であった為だ。ロケーションにこだわり、光にこだわり、念入りに選択されたその現実空間に名美と村木の役者ふたりがおもむろに配置されていく。近年の映画製作の現場では技術革新によりコンピューター・グラフィックスが多用され、舞台背景の模造と挿し込みは容易となっていて、かならずしも現実空間を切り取る作業ではなくなったようであるが、石井劇画の構築とは一から十まで徹底した現物主義だった。

 当然ながら、背景とのバランスもあって両者の衣装や装飾もずいぶんと手が込んでいた。皺や伸びにこだわり、バイクのヘルメットを描くときには新たに調達するという具合で、背景も現実なら人物も現実に可能な限り近付け、隙間なく縫合され、同等の比重を保って私たちのこころに訴え掛けた。石井隆は描き手である前に当初から監督業をこなしていたのであり、それも美術から衣装から何から何までを自分で準備する大変な役割を負っていた。

 さて、名美の投身によって劇的な終わりを迎えた【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)から少し後になって、石井は同じシリーズ「おんなの街」の連作として【夜に頬よせ】(1979)という中篇を執筆している。愛読者は冒頭から興味を惹かれる場景を目にすることになる。そこは写真スタジオらしく、照明器具に囲われたモデルのおんな(名美)が衣服をはだけて撮影に応じる真っ只中にあるのだが、彼女が被る帽子は【雨のエトランゼ】で名美が愛用していたのと同一のものに見える。もちろんおんなの風貌は名美のままである以上、読者のこころに異様な緊張が生じるのは避けられない。(*1)

 手塚治虫の描くロック(間久部緑郎)が馴染みの黒いスーツ姿であちこちに出没し、颯爽と風を切ってページを闊歩しても私たちはぜんぜん気にしない訳だから、漫画とはそういう無茶なものと捉え、帽子の類似ぐらいにいちいち驚いてはおかしいのかもしれない。石井は余程この帽子が気に入っていたのだ、だからまた使われたに過ぎないと言われてしまえば話は仕舞いなのだが、ついこの前に投身自殺を図ったおんなの面影そのままを同じ雑誌の冒頭に再現して見せる石井の意識というのは、そこまで単純ではないように思う。(*2)

 視座を反転させ、【雨のエトランゼ】という物語を裏側から覗き見るところから【夜に頬よせ】は構想され、前者ではあまり触れられなかったおんなの私生活に肉薄するぞ、これはそういう話なんだよ、と点滅して知らせる信号灯として、あの馴染みの帽子は採用されたと捉えるのが妥当ではないか。実際、両作品の舞台設定は近似する箇所が多く、眩暈を覚えるようなデジャブ感に襲われる読者も少なくない。魂の諸相を描くにはいくら枚数を投じても足らないという信念からか、それとも【雨のエトランゼ】から泣く泣く削ぎ落とされた部分がいつしか脈動して血が通い、細胞分裂を盛んに始めたものなのか。はたまた、スタジオでの撮影を終え、おつかれさまと挨拶を交わして家路につくおんなの姿を以って、【雨のエトランゼ】というロマンティックな映画が終わり、名美という女優が素に戻ったとでも言いたいのか。何にせよ明確な意図が石井には内在していて、遅れて産みおとされたのが【夜に頬よせ】なのであって、【雨のエトランゼ】とは一卵性の双生児だ。

 無謀にも私は石井の【雨のエトランゼ】に川端の「雪国」を重ね見ようとしているが、その【雨のエトランゼ】の執筆時の作者の心境は、【夜に頬よせ】と境なく溶け合っていることをここで再確認しなければならない。

 再びこのあたりで川端康成の方に話を戻すと、【夜に頬よせ】にはあきらかに文豪を想起させる描画がひとつある。それは村木と名美と共に物語の軸芯となる若者、陽介のある晩の行動として表われる。名美はこじんまりした木造アパートにこの陽介と同棲しているのだが、短気でどんな仕事も長続きせず、自らをクズ、能なしと責めては自殺の真似事を繰り返すのだった。ある時、名美が帰宅すると流しの近くに陽介は横たわっており、その手元にはガスのホースが延びている。ご丁寧にもその端を陽介は口にくわえ、うう、ゼエゼエ、ンググ、苦ッ!と喘いでいるのだった。直ぐに狂言と見破った名美はこれに冷静に対処する。

 滑稽でもの悲しいこの自殺演技については、現実にあった騒ぎを根底に置いていて、気付く人はすぐに気付くのだろうが川端の死を知らせる報道とそっくりだ。事件から五ヶ月ほど経ってから家族が雑誌に寄稿し、発見時の突飛な様子は全否定されている。常用していた睡眠薬の飲み過ぎによりひどく酩酊し、誤ってガスを放出させたまま寝入った末の偶発的な事故と説明されている。しかし、新聞紙面を最初に飾った内容は以下の通りに統一されていて、かなりの衝撃を世間に与えたのだった。「当時、この事件を報道した新聞の見出しを拾っただけでも、四十七年四月十七日付の朝刊では、朝日が〈川端康成氏、自殺/仕事場でガス吸入〉、毎日が〈川端康成氏が自殺/ガス管をくわえて〉、サンケイが〈川端康成氏が自殺/初のノーベル賞作家/逗子のマンション/ガス管くわえて〉、東京が〈川端康成氏が自殺/逗子のマンション/ガス管くわえ〉と、いずれも見出しにガス管をくわえていたという事実を大々的に謳っている」(*3)

 川端の事件は1972年であり、石井の各作品、1976年に【暴行雪譜】が、1979年には【雨のエトランゼ】と【夜に頬よせ】がある。それぞれの間には三年程度の隙間が空いていることから、連環を主張することに無謀を感じる人もいるだろうけれど、あるひとりの作家の死が石井のこころに色濃く影を落としたことは間違いないように捉えている。

 
(*1):加えて帽子を被る名美の頭部は、カメラのシャッターの開口部がガッと作動し、その奥に出し抜けに出現している。【雨のエトランゼ】の別離に関わる重要な小道具がカメラであった点を振り返れば、石井の心理に黄泉の国からの帰還、もしくは多重世界があったと想像するのは容易い。
(*2):【雨のエトランゼ】に代表される名美着用のトレンチコートおよび帽子は、『俺は待ってるぜ』監督 蔵原惟繕 1957の北原三枝由来ではないか、という意見がある。
(*3):「自殺作家文壇史」 植田康夫 北辰堂出版 2008 引用は24頁


雪原(2)


 石井隆がかつて寄稿した文章やインタビュウにおいて、川端康成に触れた事は一度も無かったと記憶している。水上勉とその文学、映画化なった作品に関しては熱心な言及(*1)が無理なく見つかるのだが、川端についてはどうも見当たらない。石井世界と「雪国」とを結びつける試みは、狂った妄執と捉えられてもだから仕方がない。

 推論が正しいとしても、騒ぎ立てるに価しない話やもしれぬ。作劇を生業とする者なら誰もが熟読していて当然であり、だから、石井の創作現場にどんな反射光が及んでもそれはごくありふれた現象に過ぎない。川端と並行して石井世界を楽しんだ上の世代の人にとって、もはや手垢のついた話題に過ぎず、何を今頃になって吠えているのかと訝り、私のことをひどく哀れと感じるかもしれない。その辺りについては自信がまるでない。


 川端は越後湯沢に何度か足を運び、取材と体験を基にして「雪国」を構築していった。今でこそ舗装道路が完備されて大型トラックが行き交い、全国展開の大手商流に侵され、同じ車種、似た服装、世界に通じる情報端末を誰もが身につけて均一化された次元だけど、昭和初期の格差は恐ろしいほど有って、山懐に抱かれた当時の温泉町というのは東京のそれとは別世界同然だった。冬季の降雪にともなう環境の激変と、それによって育まれた風習や産業に関しては、特に想像の及ばぬ夢幻の領域にあった。

 異邦人として湯町に闖入した川端が、虎の巻として大切に懐中に忍ばせ、当時はまだ「雪国」とは呼ばれていない物語を練るのに使用した古い風土記がある。これは「北越雪譜」という書物だと広く知られているが、どんな本であるのかを簡略にまとめた文章があるから書き写せばこんな具合だ。「『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)は、江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。(中略)雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。著者は、現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之。1837年(天保8年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった」(*2)とある。

 実際の執筆にあたってもその文中に盛んに引用を重ねた「北越雪譜」だけど、この本は「雪国」における舞台美術の役割に止まってはいない。形を変えて天地を縦貫する水(雨、雪、水蒸気)の動線が「北越雪譜」の冒頭には紹介されてあるのだが、これに近似した縦方向への動きが「雪国」の逸話や男(島村)の視点に視止められるのだし、また、男の脳裏にこびり付いて物語全体を暗雲のように覆い尽くす“徒労”という意識は、古から雪に対峙して疲弊を極める山間部住民の心情を反射させているだろう。さらには、幕引きにて発狂に至った葉子という娘の造形にも影響を及ぼしていると説く論文も見つかる。(*3)

 「雪国」の中で島村が東京でどのような日々を送っているか、それを彼の目線でやや自嘲的に説明するくだりがあるが、この辺りの茫洋とした感じは「北越雪譜」という書中の奥を彷徨う作者の実像と被って見える。「雪国」という幻想譚には、書物に淫した男の独白という隠れた一面があるのであって、二冊の書物の連結は思いのほか強い。(*4)

 ほとんどの読者はこの“昔の人の本”を実際に手に取ることはしないし、川端の内面と彼の小説にどこまで浸透してその創造を支援したか気にしないのだけど、「北越雪譜」と「雪国」の執筆活動は融け合っており、両者の解離は許されない。

 さて、前置きは終えて本題、つまりは川端と石井隆の連環について語るなら、先ず瞠目すべきはこの鈴木牧之(すずきぼくし)の遺した「北越雪譜」という書名だ。おそらく造語であるのだろう“雪譜(せっぷ)”という語句に汎用性は皆無であり、いくら探してもシンセサイザー奏者のアルバムタイトルが僅かに見つかるだけであって、ほぼ全ての検索結果が「北越雪譜」という書物に集約されてしまう。ところが、石井の初期の劇画には、他ではほとんど見られないこの“雪譜”を題名に用いた短篇が見つかるのであって、これは果たして偶然の一致と言えるだろうか。

 1976年(昭和51年)のヤングコミックに掲載された二十一頁のそれは、【暴行雪譜】と題されたもので、同年「女地獄」と銘打たれた特選集にも再収録されている。強姦未遂事件を起こした若者が切羽詰って秋田行きの夜行列車に飛び乗り、雪に覆われた海辺の駅に降り立つ。そこで淋しげな風情のおんなと出会うのだった。

 いつか運命的な出逢いが訪れ、互いに惹かれ合い、霊肉一致の融合を果たす日が必ず来ると信じて生きる街住まいの人間の翳を、どちらかと言えば石井は丹念に描いてきた。地方の町から都会の底辺へと漂着した男女の弧弱を見つめ続ける石井隆の作歴において、それとは真逆のベクトルを示す関東圏からの脱出行と、雪深い僻村での和服姿のおんなとのいじらしいとも言える出逢いが描かれていて、【暴行雪譜】は奇妙な潮目と波形を湛えている。石井が川端「雪国」を自分なりに咀嚼し、現代に蘇らせた小品と捉えるのがどうしたって自然ではないか。

 物語の最後で断崖に突き出た雪庇(せっぴ)が突如として崩れ、声をあげる間もなく海面へと真っ逆さまに落ちていく若者の様子というのは、(水上原作の映画とも似ていることは似ているけれど、)川端の創造した葉子という娘の墜落場面ともひそやかに共鳴するところがありはしないか。


(*1):「記憶の映画3」聞き手 権藤晋「石井隆コレクション3 曼珠沙華」1998 まんだらけ 所載 「水上作品が僕を惹きつけて、原作を買っては読み耽っていた」
(*2):ウィキペディアより
(*3):「川端康成『雪国』を読む」奥出健 三弥井書店 1989 158頁 「行男の死後この二人は決定的な違いをみせる。駒子は極力行男のことに触れまいとするのに対し、葉子はまるで〈物の怪〉に憑かれたように墓参を繰り返す。この葉子の姿は『北越雪譜』──「織女の発狂」の項─に記されている名品を織ろうとして気の狂った機織娘に似ている。」 

(*4):「西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログスムの類まで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないといるところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。」「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は24頁

2016年6月12日日曜日

雪原(1)


 日常の慰めのひとつは、車を駆っていくらかまとまった距離を走ることだ。車種は問わないし、速度もそうは出さない。商談や会議、葬祭に出向く機会にほぼ限られ、やみくもに走る事がない点が自分でもつくづく貧乏性と感じるし、身近な知人と会って過ごした方が余程愉しく有益な時間になると分かってはいるのだけれど、なんだかこの頃は凄く臆病になって逢えずにいる。

 朗読や落語を収めたコンパクトディスクを旅の友と決めて、流れる風景を愛でながら耳を傾ける。俳優や噺家の発する台詞が肌に吸い付くようであり、さらに体内の奥へ吸収されて五臓六腑にじゅんと沁みていく感じが有ってたまらない。

 最近の脳科学の話によれば、ハンドルを握っている私たちの内側でアルファ波と呼ばれる脳波がだだ漏れ状態なのが測定されるらしい。発進時のとがった緊張が煙のように消え去り、タイヤが順調に回りだして以降にいよいよ泉のごとく湧き上がるそれは、甘い快楽や集中力の極度の高まりが運転にともなう確たる証しだ。これは素人推測なのだけど、多分そんな最中に聞く先人の名筆というのは、走行がもたらす愉悦と相互に影響し合い、うねうねと繋がる波形を増幅する効果が有るのだろう。

 言葉に手ごわい浸透圧があって、自身の体験記憶と共鳴しては渦巻き、思考が活発化するのが実に嬉しい。麻薬の酩酊にこれはかなり近しい神経の活性ではないか、と本気で疑っている。三島由紀夫、堀辰雄、サガン、遠藤周作、瀬戸内寂聴といった薬をむさぼる際には、視界がゆらりと明度を増すようでさえあって、あきらかな覚醒作用が働いて感じられる。

 先日、新緑の樹々に抱かれて蛇行する峠道を上り下りしながら、川端康成の「雪国」(1937)(*1)を最初から最後まで聞いた。窓の外は虫たちがわんわんと鳴いて、その生命力を競い合っていた。恥ずかしい話だけれど、こんな年齢になって物語の全容を初めて知る。無菌状態の新興住宅街に生まれ育ち、花街や晩酌とは無縁の幼少年期を過ごしてしまったから、トンネルや列車、それに様ざまに変わる雪の質感や寒気といったもの以外は自身の引き出しに乏しく、絵面がぜんぜん浮かばなかった。最初の数頁をめくっただけで手に負えない気がして放り投げている。ありきたりながらも年相応に経験を重ねて、少しは人情の機微を察するだけの箪笥預金が出来たせいだろう、描かれた男たちの暗澹も女たちの焦慮や諦観も、もはや一方通行ではなく、自分のこころと盛んに交信を始めるところがあった。男優の巧みな話術を借りて血肉化なったおんなの息づかいと肉声が、鼓膜をさわさわと震わせ、明瞭に想いの丈が伝えられた。一字一句が光跡を露わにしつつ、しんしんと胸の内に降り立った。

 川端の創造世界に圧倒された私は車を降りてからもしばらく引きずられ、その残響に耳を傾けた。特に最終章で映画を上映していた繭蔵が出火し、偶然居合わせたものか、それとも蛾が炎に吸い寄せられるようになったか、宿命に打ちのめされた若いおんなが二階から落下する描写と、これに続くヒロイン駒子の「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」という絶叫、そしてその刹那に男が見上げる天空の星々の在り様といった大胆なカットバックには衝撃を受けた。

 葉子という娘の墜落は一瞬の出来事で、「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た」その中に男とヒロインも混じるのだが、川端はその時間を巻き戻し、さながら映画フィルムをコマ送りにするか、それとも劇画の枠内に永遠に面影を刻むようにして落下の仔細を読者に再提示する。

 「繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ちたので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。人形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水のかかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。」

 このように一度書き留めた上で川端は、おんなの身体を二階家まで持ち上げてから再度投げ捨て、落下の描写を執拗に繰り返す。「古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水平のまま落ちた。」(*2)

 残酷かつ崇美なおんなの墜落の様子を後追いしながら、いつしか私の目のふちには石井の劇画代表作【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)のラストシーンが浮上した。どうかしている、またいつもの馬鹿な連想が始まったかと、誰に言われるまでもなく警戒する囁きが内心に起こり、この場に書き綴ることに躊躇いを覚えたままでしばらく過ごした。

 だいたいにして村木の仕事場のあるビル屋上から投身した名美は失神しておらなかったし、その身体は‟く”の字に少しだけ曲がっていたから水平ではなかった。生も死も休止したような姿で宙に浮かんだ名美の姿は、身体の向きが上向きか下向きかの違いはあっても、どちらかと言えば同名のフランス映画(*3)の冒頭に置かれたスクリーンプロセスで撮られたおんなの投身場面に近しいのであって、川端の「雪国」にある葉子の絵姿と表面上は二重写しとならない。そもそも名美の身体がいよいよ路上に至ったとき、無音という訳でもなかった。

 石井作品との連環はさておき、川端の「雪国」が胸にひどく来たのは事実であって、この際しっかりと記憶に収めたいとまずは考えたのだが、何しろ有名な国民文学であるし、不勉強な自分が未熟な経験と知識で消化するのは困難と感じられ、関連する研究書籍を幾冊か読み漁り、また、岸恵子や岩下志麻の映画も探しては眺めるといった時間をこの半月過ごした。

 そのような行程を経た上でも私は、いや、それで尚更という気持ちなのだけど、川端の「雪国」が石井の“記憶の文学”として機能し、その足跡を石井世界に横たわる真っ白な雪原に残した可能性を否定し切れずにいる。世間にいくら笑われても構わないから仮のテーマとして皆に開示したいと思い、頬を撫ぜていく初夏の風だけを味方にこれを打っている。


(*1):川端康成「雪国」 朗読 加藤剛 新潮社 2001
(*2):「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は171頁
(*3):『雨のエトランゼ』Un Beau Monstre 監督 セルジョ・ゴッビ 1971

2016年5月27日金曜日

“血縁”~「少女からの手紙」~


 『GONINサーガ』ボックスに収まった小冊子(*1)に、石井隆はあとがき風の一文を寄せている。手元に映画を観た若いひとから手紙(メール)が届く。感涙した場面や独自の読み解きを連連と綴った内容であり、石井はこれを大切に想いつつ慎重に引用してみせるのだった。興味惹かれるところは幾つもあるが、『殺しの分け前 ポイント・ブランク』(1967)(*2)に触れているのが愉しい。リー・マーヴィン演ずるウォーカーは、旧友マルの提案に乗って組織の密売金の強奪をもくろむ。見事に成功するのだったが、マルはウォーカーを撃った上で彼の妻リンを連れて逃げ去ってしまう。被弾したもののからくも生き残った男は、一年の後に壮絶な復讐戦に打って出る、そんな幕明けのハードボイルドだった。

 書簡の主が語らんとする一端は、そして、石井が首肯するのは、両作の血に類似が見つかる点である。映写幕の裏側の薄暗がりにて、男たちがざわざわと蠢いている。『ポイント・ブランク』の酒場のセットはいかにも猥雑な顔立ちで、踊り子の後ろにスクリーンが設置され、そこに原色のスライドが次々に照射されていた。盗られた金の奪取こそが主人公の目的なのだが、それ以上に復讐の念が煮えたぎっており、肩怒らせた男の背中を奥へ奥へとけし掛ける。ろくに言葉も交わすことなく、鉢合わせした者を猛然と殴りつけていく。これに『GONINサーガ』(2015)のダンスホールの雄雄しい情景を重ねていくのは、至極もっともな連想だろう。

 それにしても、書中で他の映画作品の題を振られた石井が、「なぜ『ポイント・ブランク』が好きなことまで知ってるんだ!灰の中からダイヤモンドを見つけたような気分になった」と晴れやかに反応しているのが愉快だ。よくぞ言い当ててくれた、とでも言わんばかりの軽やかさだ。

 北国の繁華街にて幼少年期を過ごし、林立する劇場に足繁く通って、浴びるように映画を観て育った石井の作品には、フィルムから凝縮された甘露が予想だにしないタイミングで滴下して妖しげな文様を作る。年齢の浅い人は見過ごす一瞬が多いけれど、ある時期の作品群をある程度見知っている者の目にその相似は明らかだ。

 映画という魔物に魅せられた創り手にどうしようもなく生じてしまう結晶作用なのだが、造り手がまるで否定しない図式もつくづく特徴的な関係と思う。自らの創作活動の湖底に先人たちの幾多の作品が悠々と回遊する事を、石井はむしろ喜んで語るのだし、他者の残影を見透かされることでかえって観客の内部には共振が起こり、視ることの愉悦が増幅するとさえ考える。それこそが映画づくりだし、心とこころを繋ぐ映画体験の妙味と固く信じている節がある。

 白状すれば私の映画体験など人に誇れる厚みはなく、石井の筆先から漏れ伝わるささやきを頼りに探し歩いてようやく鑑賞に至る有り様なのであって、『ポイント・ブランク』にしたってこうして教わらなければ生きている間に観たかどうか怪しい。自宅のモニターで昨日鑑賞した訳だけど、これは確かに共振を誘う作品であり、二重写しの部位は映写幕だけではなかった。

 居合で竹を両断するが如き編集が冒頭にあって、その瞬間から度胆を抜かれる訳だけど、畏れることなく時間流を往還するこの『ポイント・ブランク』の大跳躍に近似したものは石井の2004年以降の作品群でよく見受けられる文法なのだし、加えてここには劇画小編【シングルベッド】(1984)との明確な結線が認められる。

 【シングルベッド】については以前、別の場処(*3)にて取り上げているのでここで詳しくは触れないが、不倫の男女が睦言を交わす際の肌と肌の隙間に、閃光となって突如侵入する一瞬の妻の幻影というのは、『ポイント・ブランク』の中盤に叩き込まれる目まぐるしい寝台の描写をトレースしたものと捉えて間違いないように思う。主要な登場人物をめぐる乱婚ぶりをワンシーンで語ってみせる、極めて作為的なカットの集束であった。

 男とおんなが欲望に身をゆだねるとき、同じ程度の背格好のそれぞれが深々と絡み合い、似たような体位をとっていく訳だから、もしも目視が許されたとして眼前に展開するのは、ありがちな光景が紙芝居のように連なるだけとなる。それは分かるけれど、同じ寝具と同じ照明でキャストを入れ替えながら撮影し、これを肉色の鎖と成して連結してみせる『ポイント・ブランク』の乱交描画というのは、不意討ちされるとかなりの衝撃があるのだった。こちらの奥まったところに隠れていた非常ブレーキのペダルがにょっきり露わとなって、思わず踏み込んでしまう感じ。かつて石井の【シングルベッド】が私にもたらしたそれも、同等の強い筆圧が具わってあったのだが、今にして思えば両者は完全に血縁なのだ。

 つまりは何が言いたいかというと、石井世界にとって『ポイント・ブランク』はかつて権藤晋のインタビュウで開陳された“記録の映画”に連なる特別な一本ということだ。石井作品を定宿として度々訪れ、恋情なり修羅を手探る者にとって、今回のあとがきは宝の在り処(=石井世界の基軸)を示す地図と呼べそうで、到底無視できない文書となっている。

 四十歳を過ぎたリー・マーヴィンの土木用重機のごとき硬質の面貌と、『GONINサーガ』の画面にひしめき薫る美丈夫を一緒にしてはいけないかもしれないが、ふたつのフィルムを重ねることで陰影がいよいよ深まり、銀幕の裏にたちこめる吐息の質量は倍加する。男たちの復讐の意志は共鳴が止まらずに膨張決壊して、ようやく石井の思い描く『GONINサーガ』の実相に一歩か二歩分だけ近づいていく。


(*1):「少女からの手紙」 石井隆 『GONINサーガ』ボックス特典 KADOKAWA 
(*2): Point Blank 監督 ジョン・ブアマン 1967
(*3): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=738196413&owner_id=3993869



2016年5月5日木曜日

“温かい屍体”~着衣の根源⑤~


 故人の衣服を羽織る。この行為を介してゆるやかに想い持続させ、生者と死者とが手をたずさえて難局を越える一瞬が石井の創作空間には頻発する。針の振れ具合が極大化したとき、『GONIN』(1995)におけるジミー(椎名結平)のように、はたまた『GONINサーガ』(2015)における明神(竹中直人)のように屍体の一部を身に纏うこととなる。神妙な面持ちで形見を譲り受け、撫でさすり愛でるといった軟らかな次元ではなく、死肉そのものを着装するというのだから物心両面で容易な事態ではない。一般には天と地ほども違って見える行為なのだが、石井隆の劇では段差がまるで無いのが興味深いし、本来は醜悪でひどく殺伐とした光景となるべきところが、不思議と温かみを増していくのも面白い。遺体と生者の間に、独特の親和性が生まれている。

 ここで言う劇とは単に筋立てを指すのではなく、石井の演出に基づく劇画や映画の時空をいう。たとえば脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)と、石井が監督も務めた『ヌードの夜』(1993)、『フリーズ・ミー』(2000)では共に殺人と死体遺棄が描かれており、冷蔵庫やドライアイスを用いて遺体を身近に隠し置こうとする顛末が描かれる点で同じ系譜の映画なのだけど、自他ともに良きコンビと認める池田の演出においてさえ、石井のまなざしとはすこし違った顔付きで死者は面前に現われるのだった。損壊の痕がまざまざと露出し、恐怖の表情を浮かべた肉片となって銀幕から我々を威嚇する。これに対して石井の死者たちは、もはや私たちを脅さない。それどころか生前の粗暴な言動を反省して手を合わせるような沈んだ風貌となり、いかに目を剥いて倒れていても其処に恐怖は潜まない。

 死者の立ち構え(ここでは寝構えとでも言うべきか)の特殊なせいだろう。自らを殺めようと近付く相手に対して人は当然ながら激しく抵抗し、逃げようとじたばたするものだ。映画空間での被害者の多くは、拒絶して突っ張る気持ちを体現して、死してなお苦悶に喘ぐ。しかし、石井の死者たちに残留するベクトルというのは反発する方向に働かない。特定の生者に執心することを止められず、どこまでも寄り添おうと努めて見える。幽かな波動は、愛する者に向かっておだやかに流れ続けるのである。多分、『GONIN』の娼婦と『GONINサーガ』の踊り子は、愛する相手に身を斬られながらも形見と化していくこと、かたわらにもうしばらく居られること、それを通じて男を励ましていくを想い描き、すべてを許容して微笑んだに違いないのだ。

 野の小路に据えられた磨崖仏(まがいぶつ)が長年風雨に洗われるうちに、頭や手足を失いながらも泰然として微笑み返すように、生一本の芸妓が熱いこころを託して切り落とし、愛する相手に送った小指の先端が血に染まりながらも清麗と思えるように、石井の死者たちは空を摑み、節々を硬直させながらも、また遺骸は血をこびりつかせながらも、どこかしら穏やかな面差しを宿していく。生を全うすることのひとつの理想像が、それとなく提示されている。

 昨夜『GONINサーガ』を観直しながら、つくづく人肌の映画と感じる。ああ、石井隆だな、これは石井の体温だな、と思う。非道い人間ばかりが列を為す救いようのない話なのだけど、ひと皮剥けば誰もが善人と感じられる。ただ不器用で、何もかもが後手に回ってふらついているだけなのだ。血と雨でまだらと化したダンスフロアに折り重なった屍者たちを温(ぬく)く感じながら、ほのかな嫉妬心さえ抱いていく。そこに交じりたいような、実に妖しい気持ちのざわめきがある。