2016年5月27日金曜日

“血縁”~「少女からの手紙」~


 『GONINサーガ』ボックスに収まった小冊子(*1)に、石井隆はあとがき風の一文を寄せている。手元に映画を観た若いひとから手紙(メール)が届く。感涙した場面や独自の読み解きを連連と綴った内容であり、石井はこれを大切に想いつつ慎重に引用してみせるのだった。興味惹かれるところは幾つもあるが、『殺しの分け前 ポイント・ブランク』(1967)(*2)に触れているのが愉しい。リー・マーヴィン演ずるウォーカーは、旧友マルの提案に乗って組織の密売金の強奪をもくろむ。見事に成功するのだったが、マルはウォーカーを撃った上で彼の妻リンを連れて逃げ去ってしまう。被弾したもののからくも生き残った男は、一年の後に壮絶な復讐戦に打って出る、そんな幕明けのハードボイルドだった。

 書簡の主が語らんとする一端は、そして、石井が首肯するのは、両作の血に類似が見つかる点である。映写幕の裏側の薄暗がりにて、男たちがざわざわと蠢いている。『ポイント・ブランク』の酒場のセットはいかにも猥雑な顔立ちで、踊り子の後ろにスクリーンが設置され、そこに原色のスライドが次々に照射されていた。盗られた金の奪取こそが主人公の目的なのだが、それ以上に復讐の念が煮えたぎっており、肩怒らせた男の背中を奥へ奥へとけし掛ける。ろくに言葉も交わすことなく、鉢合わせした者を猛然と殴りつけていく。これに『GONINサーガ』(2015)のダンスホールの雄雄しい情景を重ねていくのは、至極もっともな連想だろう。

 それにしても、書中で他の映画作品の題を振られた石井が、「なぜ『ポイント・ブランク』が好きなことまで知ってるんだ!灰の中からダイヤモンドを見つけたような気分になった」と晴れやかに反応しているのが愉快だ。よくぞ言い当ててくれた、とでも言わんばかりの軽やかさだ。

 北国の繁華街にて幼少年期を過ごし、林立する劇場に足繁く通って、浴びるように映画を観て育った石井の作品には、フィルムから凝縮された甘露が予想だにしないタイミングで滴下して妖しげな文様を作る。年齢の浅い人は見過ごす一瞬が多いけれど、ある時期の作品群をある程度見知っている者の目にその相似は明らかだ。

 映画という魔物に魅せられた創り手にどうしようもなく生じてしまう結晶作用なのだが、造り手がまるで否定しない図式もつくづく特徴的な関係と思う。自らの創作活動の湖底に先人たちの幾多の作品が悠々と回遊する事を、石井はむしろ喜んで語るのだし、他者の残影を見透かされることでかえって観客の内部には共振が起こり、視ることの愉悦が増幅するとさえ考える。それこそが映画づくりだし、心とこころを繋ぐ映画体験の妙味と固く信じている節がある。

 白状すれば私の映画体験など人に誇れる厚みはなく、石井の筆先から漏れ伝わるささやきを頼りに探し歩いてようやく鑑賞に至る有り様なのであって、『ポイント・ブランク』にしたってこうして教わらなければ生きている間に観たかどうか怪しい。自宅のモニターで昨日鑑賞した訳だけど、これは確かに共振を誘う作品であり、二重写しの部位は映写幕だけではなかった。

 居合で竹を両断するが如き編集が冒頭にあって、その瞬間から度胆を抜かれる訳だけど、畏れることなく時間流を往還するこの『ポイント・ブランク』の大跳躍に近似したものは石井の2004年以降の作品群でよく見受けられる文法なのだし、加えてここには劇画小編【シングルベッド】(1984)との明確な結線が認められる。

 【シングルベッド】については以前、別の場処(*3)にて取り上げているのでここで詳しくは触れないが、不倫の男女が睦言を交わす際の肌と肌の隙間に、閃光となって突如侵入する一瞬の妻の幻影というのは、『ポイント・ブランク』の中盤に叩き込まれる目まぐるしい寝台の描写をトレースしたものと捉えて間違いないように思う。主要な登場人物をめぐる乱婚ぶりをワンシーンで語ってみせる、極めて作為的なカットの集束であった。

 男とおんなが欲望に身をゆだねるとき、同じ程度の背格好のそれぞれが深々と絡み合い、似たような体位をとっていく訳だから、もしも目視が許されたとして眼前に展開するのは、ありがちな光景が紙芝居のように連なるだけとなる。それは分かるけれど、同じ寝具と同じ照明でキャストを入れ替えながら撮影し、これを肉色の鎖と成して連結してみせる『ポイント・ブランク』の乱交描画というのは、不意討ちされるとかなりの衝撃があるのだった。こちらの奥まったところに隠れていた非常ブレーキのペダルがにょっきり露わとなって、思わず踏み込んでしまう感じ。かつて石井の【シングルベッド】が私にもたらしたそれも、同等の強い筆圧が具わってあったのだが、今にして思えば両者は完全に血縁なのだ。

 つまりは何が言いたいかというと、石井世界にとって『ポイント・ブランク』はかつて権藤晋のインタビュウで開陳された“記録の映画”に連なる特別な一本ということだ。石井作品を定宿として度々訪れ、恋情なり修羅を手探る者にとって、今回のあとがきは宝の在り処(=石井世界の基軸)を示す地図と呼べそうで、到底無視できない文書となっている。

 四十歳を過ぎたリー・マーヴィンの土木用重機のごとき硬質の面貌と、『GONINサーガ』の画面にひしめき薫る美丈夫を一緒にしてはいけないかもしれないが、ふたつのフィルムを重ねることで陰影がいよいよ深まり、銀幕の裏にたちこめる吐息の質量は倍加する。男たちの復讐の意志は共鳴が止まらずに膨張決壊して、ようやく石井の思い描く『GONINサーガ』の実相に一歩か二歩分だけ近づいていく。


(*1):「少女からの手紙」 石井隆 『GONINサーガ』ボックス特典 KADOKAWA 
(*2): Point Blank 監督 ジョン・ブアマン 1967
(*3): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=738196413&owner_id=3993869



2016年5月5日木曜日

“温かい屍体”~着衣の根源⑤~


 故人の衣服を羽織る。この行為を介してゆるやかに想い持続させ、生者と死者とが手をたずさえて難局を越える一瞬が石井の創作空間には頻発する。針の振れ具合が極大化したとき、『GONIN』(1995)におけるジミー(椎名結平)のように、はたまた『GONINサーガ』(2015)における明神(竹中直人)のように屍体の一部を身に纏うこととなる。神妙な面持ちで形見を譲り受け、撫でさすり愛でるといった軟らかな次元ではなく、死肉そのものを着装するというのだから物心両面で容易な事態ではない。一般には天と地ほども違って見える行為なのだが、石井隆の劇では段差がまるで無いのが興味深いし、本来は醜悪でひどく殺伐とした光景となるべきところが、不思議と温かみを増していくのも面白い。遺体と生者の間に、独特の親和性が生まれている。

 ここで言う劇とは単に筋立てを指すのではなく、石井の演出に基づく劇画や映画の時空をいう。たとえば脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)と、石井が監督も務めた『ヌードの夜』(1993)、『フリーズ・ミー』(2000)では共に殺人と死体遺棄が描かれており、冷蔵庫やドライアイスを用いて遺体を身近に隠し置こうとする顛末が描かれる点で同じ系譜の映画なのだけど、自他ともに良きコンビと認める池田の演出においてさえ、石井のまなざしとはすこし違った顔付きで死者は面前に現われるのだった。損壊の痕がまざまざと露出し、恐怖の表情を浮かべた肉片となって銀幕から我々を威嚇する。これに対して石井の死者たちは、もはや私たちを脅さない。それどころか生前の粗暴な言動を反省して手を合わせるような沈んだ風貌となり、いかに目を剥いて倒れていても其処に恐怖は潜まない。

 死者の立ち構え(ここでは寝構えとでも言うべきか)の特殊なせいだろう。自らを殺めようと近付く相手に対して人は当然ながら激しく抵抗し、逃げようとじたばたするものだ。映画空間での被害者の多くは、拒絶して突っ張る気持ちを体現して、死してなお苦悶に喘ぐ。しかし、石井の死者たちに残留するベクトルというのは反発する方向に働かない。特定の生者に執心することを止められず、どこまでも寄り添おうと努めて見える。幽かな波動は、愛する者に向かっておだやかに流れ続けるのである。多分、『GONIN』の娼婦と『GONINサーガ』の踊り子は、愛する相手に身を斬られながらも形見と化していくこと、かたわらにもうしばらく居られること、それを通じて男を励ましていくを想い描き、すべてを許容して微笑んだに違いないのだ。

 野の小路に据えられた磨崖仏(まがいぶつ)が長年風雨に洗われるうちに、頭や手足を失いながらも泰然として微笑み返すように、生一本の芸妓が熱いこころを託して切り落とし、愛する相手に送った小指の先端が血に染まりながらも清麗と思えるように、石井の死者たちは空を摑み、節々を硬直させながらも、また遺骸は血をこびりつかせながらも、どこかしら穏やかな面差しを宿していく。生を全うすることのひとつの理想像が、それとなく提示されている。

 昨夜『GONINサーガ』を観直しながら、つくづく人肌の映画と感じる。ああ、石井隆だな、これは石井の体温だな、と思う。非道い人間ばかりが列を為す救いようのない話なのだけど、ひと皮剥けば誰もが善人と感じられる。ただ不器用で、何もかもが後手に回ってふらついているだけなのだ。血と雨でまだらと化したダンスフロアに折り重なった屍者たちを温(ぬく)く感じながら、ほのかな嫉妬心さえ抱いていく。そこに交じりたいような、実に妖しい気持ちのざわめきがある。






2016年5月3日火曜日

“形見”~着衣の根源④~


 私事となるが、二十年近く前に年長の家族を葬っている。高齢で闘病も長々と続いていたから、家族親族ともに納得の上の最期と捉えてはいるのだが、今更ながらあれこれと噛み締める時がある。

 物置にそっくり移動した和箪笥の中に、着物や帯などが仕舞われたままとなっている。その前を歩くたびに気持ちが打ち沈む。薄暗闇に捨て置かれた格好のそれが痛ましく、とにかく申し訳ない気持ちで一杯になる。性別も体型も違う以上は手に取るまでもなく、私にとって使用し得ない性格のものばかりだ。遺品と形見との違いは何かといえば、遺された者の身近にあって本来の能力を発揮し得るかどうか、と思うから、残念ながらそれ等は遺品のままで棚奥に眠り続けてもらうより仕方ない。

 同性の親族に形見分けを強いるのも気が引ける。何より衣服は時代ごとに流行もあるし、また、死穢の意識も正直混じるはずだ。そもそも、形見分けという場面が今の世の中にあるのだろうか。物があまりにも溢れ過ぎている。流通する食物のうち、まだまだ食べられるのに年間約500万トン以上が廃棄されていく狂った時代に生きながら、古きものを形見として存分に活かすことは難題でしかない。この世に形見として機能し、遺された人を励まし支えていく物が実際どれだけ有るのか、私には正直のところよく分からない。

 振り返れば、石井隆の『GONINサーガ』(2015)は形見とそれに準じたものが目白押しで、登場人物の多くは大なり小なり“物”に囚われている。こういうのを若い世代はどう受け止めるものだろう。石井の作劇に絶えず見られる物への執着が、今回はずいぶんと色濃く顕われていたように思う。十九年の歳月を越えて貸し借りされるハンカチ(*1)であったり、手首に光っていた金色のバングル、自慢の拳銃であって、それ等は単なる物ではなく思念や怨念の凝結した化け物染みた迫力をそなえて劇中を縦断していた。

 他に触れる人は誰もいないが、私がもっとも慄然としたのは上にあげた可視領域の形見ではなくって、実は台詞に出現したそれであった。殺された親の無念を晴らす目的から遺児たちが共謀し、劇の中盤に暴力組織の隠し金庫を襲撃するのだけれど、その直前に交わされた会話に顔を覗かせている。警官に化けて乗り込むと決めた三人は、異様な昂揚に包まれながら下着を白いブリーフへと穿き替えていく。今にして思えば死に臨む前の白装束の一端であるのだが、そんな着替えの只中に不自然な形で割り込んで来たのだった。該当箇所を小説版「GONINサーガ」から書き写してみる。

勇人が大輔のしている父親の形見の磁気バングルを見て、
「マッポはバングルしていませんよ」
「親父も連れてってやろうとしただけじゃんか」
大輔が外す振りをして、勇人の目を盗んで長袖のシャツの中に押し上げて隠し、
「穿き替えたパンツ、母ちゃんのバンチィ~穿いて来たんじゃねえだろうな?可愛い可愛い勇人ちゃん。マミィ~~」
「なんすか、それ?」勇人がムッとして突っ掛かろうとすると、(*2)

 表層だけを見れば、裸の付き合いの朋友であればこそ許される猥雑な冗談でしかないのであって、ただそれだけと読み流しても一向に構わない場面であろうが、私たちは石井がどれだけ着衣にこだわり、形見にこだわり、此岸と彼岸を貫くまなざしをいかに大事に扱って来たかを知っている。そうである以上、確かに冗談であるにしても極めて重い内実をそなえたものと理解すべきではなかろうか。殊にここでの会話と状況が、親の形見を銘々が携え、またはそれを巡っての特攻と知れる以上、単純な戯言として片付けるべきではない。

 『GONIN』(1995)と『GONINサーガ』の作劇のスタンスが同一であり、起伏を完全に連ねている点を思案に重ねれば、前作での“着衣”の意味や目的はそのまま持続するのであって、ここでの遺品着装の仄めかしは世界観においてはいかにも自然で、強固な必然性を帯びていく。

 私が先の台詞で身震いを覚えたのは、冗談がまるで冗談に聞こえず、たぶん図星だろうと思ったからだ。私たちの目に触れない場処で、遺品を前にして膝折り消沈する男の姿が目に浮かび、煩悶に押しつぶされる余りに着装を試みる様子が重なる。そんな事はどこにも書かれていない、勝手に解釈を広げるなよ、そういうのを妄想って言うのだ、と叱られそうだけど、石井隆の作劇というのは本来そういう物狂おしい事態や行為のつるべ撃ちであって、この脳内補填を間違ったものと私は思わない。勇人という若者の造形はむしろ、それでもって完成されるのではないか。愛する者の肌着を着装することを厭わない、そんなナイーヴさがあればこその劇中の数々の言動であり、散り際の雄叫びではなかったか。『GONINサーガ』の世界観の構築はそれで完結するのではないか。(*3)

 故人を見送る時間が長く連なるとき、はたまた何らかの理由で人が人と生き別れとなるとき、着装という手段にて魂の融合を図っていくことがある。それぞれが異性同士であれば、その行為の外貌を異端視し、ことごとく嫌悪し、悪しざまに言う者も現われる訳だが、石井はおかしな事ではないよ、人間とは元来そういうものだよ、と、そっと囁く。

 ああ、そういえば、今になって思い出したのだけれど、形見というものが突出した瞬間を先日テレビの報道番組で観ている。石井は極限のリアルを求めると先に書いたのだったが、その辺りとも結線する話だ。モニターに映された婦人は、細く白い腕に大きな黒い男物の時計をはめていたのだった。

 地脈が複雑な網目となって足元を這い進む島国に暮らす以上、私たちはこれからも世界でも類を見ない巨大天災に不意討ちをされ、辛酸を嘗めるのをどうにも避けられない。日々を重ねて編み込んできた無数の感情の糸は、その色とりどりの鮮やかな魂の組み紐は、その度ごとに切断を余儀なくされる。地べたに放り出されて孤立し、人は形見にすがっていく訳であるが、その婦人も必死の想いで夫の遺品をはめているのだろう。奇妙で滑稽と見るか、寂しくも愛しい姿と見るか、私たちのこころの質量が問われる場面と思うし、石井隆の装飾にはこの種のさりげない橋懸かりが、つまりは精神面が外装を期せずして変えていく一瞬があるように思う。

(*1):劇中でも、小説版でも明示されているが、麻美と大輔の交わすハンカチは同一のものではない。それでは唯一無二の形見の品と並列すべきではないのじゃないか、ありふれた生活の道具として描かれたのであって、同一視は避けるべきと思うかもしれないが、ハンカチやライターは特別な光源を放って石井の劇で用いられてきた。さかのぼれば【天使のはらわた】(1978)の第三部に、名美が村木に対してハンカチを差し出す場面があった。恋情の発露、惹かれ合う男女の邂逅を描くにはやや古典的な道具立てであるが、麻美と大輔両者の劇中での立ち位置を明確に示すサインとなっている訳である。石井が当初から土屋アンナを物語の裏側を貫く背骨として登用し、自身の世界を構築しようと試みた節が読み取れる。ハンカチは常に別格の扱いをして構わない。
(*2):「GONIN サーガ」 石井隆 角川文庫 2015  219-220頁 完成した映画での台詞はここまでふざけた調子ではなかった。
(*3):『GONINサーガ』を石井はスター映画と位置付け、演技者を徹底して追い込む事を避けている。それは井上晴美や福島リラといった女優陣が演じたおんなたちの、最終的な造形を見れば分かるだろう。白い裸身をフィルムに刻むことを避け、着衣のままで舞台袖に帰らせている。そのような配慮は勇人(東出昌大)にも及んでいると考えて良いだろう。