2017年4月18日火曜日

“血の塊り”


 強靱な(はがね)の筋肉を持ち、千里眼にも似た通信手段を具えたおんなサイボーグが主人公の映画を観た。(*1) 日本製のアニメーションを起点とし、その人気を当て込んで実写化されたものだ。寂びれた亜細亜の街を駆けぬける様子は面白かったけれど、場面のいちいちが原典の模写に陥っていて、かつて観たり読んだりした景色が目の奥で蘇えってしまう。その度に座席に引き戻されて、これは致命傷だった。咀嚼すべきものが見当たらないし、歯応えも無ければ後味(あとあじ)もなくって、飢餓感が癒されぬままの乾いた時間となった。

 小道具なり描写が、なんだか古色蒼然として感じられた。新作を観るつもりが何を間違ったか名画座の門を潜ってしまい、古いフィルムを観せられている気分だ。これは何故なんだろう。現実世界を前にして精彩を欠いており、それどころか相当の遅れをとっている。ウェブを通じて日々報じられる仮想現実の劇的なまでの精度向上、奇怪なロボット兵器の歩行、自働走行車の滑らかな車線変更といった昨今の技術革新と比べれば、映画に描かれた未来像の輪郭は随分とありきたりなものばかりであって、観た瞬間後にはたちまち霞んでいく。ビジネスや教育いろんな形で食い込んでは膨張を続けるデジタル化の海嘯(かいしょう)の方が、私にはよほどスリリングに目に映るのだし、フィクション以上の希望と恐怖を脳裏に刻んでいく。
 
 そんな訳で映画の出来は大して感心しなかったが、この「現実」からの置いてきぼり感はすごいすごいと思われ、大変な時代に行き着いたものだと妙なところでうろたえている。テクノロジーの進化に追い越されて、人の想像力が頼りない灯火となって揺らめく。この‟後退、もしくは脱落現象”は最近観た他の未来劇にも当てはまり、特に日本映画に傾向がいちじるしい。娯楽に限らず物づくりに携わる者にとって、舵取りのむずかしい流れになってきた。心すべき事態と思われる。

 話は変わるがいくつかの場面で石井隆の劇画【デッド・ニュー・レイコ】(1990)を連想してしまい、こっちに興味が広がっている。その意味では観賞も役立ったということか。例えば、ありがちと言えばありがちな話なのだけど、主人公のおんなは贋物の記憶を埋め込まれており、終盤になって現場から出奔して過去を手繰り歩き、実母探しに明け暮れる辺りはひどく似通っている。

 もっとも「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウスFrankenstein or The Modern Prometheus」(1818)による幕開け以降、小説家や漫画家は創造主(父であったり母であったりする)への愛憎に満ちた旅の行程を好んで物語に挿し入れる向きがある。回の映画も、石井の【デッド・ニュー・レイコ】も、伝統を引き継ぐ亜種に過ぎないのであって、似てくるのは宿命だろう。
 
 親探しの段はさておいても、【デッド・ニュー・レイコ】と『ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017)には共通するイメージが盛り沢山だ。高層建築の頂(いただき)にたたずむ姿や地上へのダイヴ、遠目には裸にしか見えないユニフォームなんかもそうだ。映画でのおんな捜査官は、周辺の景色なり光線を取り込んでは表面に再現するカメレオンスーツを着用している。レイコは肌に密着する薄皮の防護スーツを身にまとい、敵対する人造人間を悩殺する。片や隠れ蓑(みの)、片や鎧(よろい)で機能こそ違うけれど、共に主人公の造形に強く関わっていて妖しい共振がある。

 両者の制作時期には27年という歳月が横たわる以上、偶然の産物、シンクロニティという言葉で片付けるには無理がある。それでは石井が先駆者であり、押井守(おしいまもる)とその仲間が築いた一群の未来劇はその影響下にあったのか、極言してしまえば模倣であったのか。

 真似た、真似ないと立腹してもたぶん証し立てる術は見つからないし、また、実を結ぶ作業とも思えない。その辺については正直言ってあまり興趣ひかれる事柄ではない。石井世界とは何か、石井隆はどう描いたのか、つまりは両者の違いこそを根気よく拾った方がいまは有益と思われ、首を振って気持ちを切り替える。

 以前にも書いたように【デッド・ニュー・レイコ】の人造人間たちはゼラチンを多用して造られており、その食味に取り憑かれた大男は同輩のおんな達を丸呑みにしてしまう。この共食いという原初的な、むしろ神話的と言って差支えない特質を付帯されたキャラクターというのは、なかなか凡人では思い至らぬように思われる。映画では食べるという行為に限らず人間の生理に関わる描写は省かれていたが、石井はもっぱらその辺に向けて意識を注いでいく。美食に侵された存在が人であり、真似た人型はその宿痾から逃れられないばかりか欲望をさらに拡張していく。人はどこまでも己に撞着し、行きつく果てはひたすら貪欲で罪深い化け物づくりとなる。石井の描こうとした世界は醜悪でひどくおぞましいのだけど、人間の業を体現させて巧みと思う。

 また、人造人間たちが不安な夜をやり過ごす目的で身体を重ねる場面があるのだけれど、愛を確かめ合った後に素裸のまま身を寄せ合ってまどろむ様子などを見ると、その手足の曲げ方、互いの頭部の位置、足裏側から切り取った構図のうつくしさ、線の適確さなどは石井の真骨頂であって、誰ひとり追いつけない筆づかいと演出と思う。人が人を愛するという事から発する歓びと安堵がたった一枚のコマから伝わってくるし、所作の極めて細かいところにまで目が行き届いており舌を巻く。

 似た皮膚感をそなえながらも映画のなかのミラというおんなと、石井の創ったレイコという少女には段差が認められる。ひと言で表わすなら肌の下に“血の塊り”があるかどうか、という事だろうか。ひとを包みこみ、同時に支配もするこの肉体とは何か。そこから放射され、見る者に寄せ返すものとは何か。肉体を描くことは単に五体を紙面に再現することではない。ミリ単位の闘いと一度刻みの思案を重ねて、その刹那を永遠の高みへと導くことだ。見えない部分で波打つ血の塊りを感じさせることだ。そんな自問自答が石井の劇には隙間なく付き従って、見る者の視線をゆるやかに縛っていく。

(*1): Ghost in the Shell 監督 ルパート・サンダース 2017
(*2):身も蓋もない話となるが、再びここで現実の成り様とフィクションの段差を意識するなら、これだってどうなるか正直言って分からない。ロボットや人造人間が自立した思考回路をいずれ獲得したとして、そのとき果たして人間なんかに好奇心を燃やすのかどうか、随分と怪しいのじゃなかろうか。早々に彼らの眼中から私たちは消えうせ、太陽系の最期を予測して脱出の算段に注力するのじゃないか。稀少な鉱物資源や宇宙の造形にばかり関心が向かうのではないか。人工生命体といえども「子供」である以上は「親」を恋しがり、必死になって背中を追うに違いないというドラマに馴染みの顛末は、結局のところは親の欲目や妄念に過ぎない。時代設定上、真新しいテクノロジーを扱う場合において、この辺りは厄介な落とし穴となり得るだろう。