2017年5月28日日曜日

“ひとつ家”(4)


 “廃墟”という音の響きにみちびかれ、時おり車を駆って訪ねることがある。到着してみると人の口に上るだけあって野趣に富み、その異観に酩酊もするけれど、さほど恐さは感じない。多くが村のふところに抱かれるようにして在って、舗装された道路が直ぐそばを横切り、林業や農業に関わるのっぺりした胴体のトラックが行き来するのだし、周りには家屋や作業場が点在する。色とりどりの屋根や壁が木々の向うに見え隠れするのが大概であって、夜ともなれば少し違うのだろうけれど、明るい内はまず孤絶感など湧いては来ない。

 一度は生活の基盤として成立し、長い歳月を経て今に至った建物の痕だ。勝手が分からないからちょっと気味が悪いけれど、元の作業員やそこで暮らした家族の目線に立ってみればあくまでも肌に馴染んだ町の延長線上にある。つまり廃墟と呼ばれる場処でさえ、その多くは“ひとつ家”ではない。

 思えば最近では“ひとつ家”という概念自体が成り立ちにくい。誰もがハンドルを握って何十キロ、時には百キロ、二百キロを一日のうちに駆けめぐり、難所と言われた峠には照明完備のトンネルが穿たれ、苦もなくするりと通り抜けることが可能だ。一時間も走れば24時間営業のコンビ二エンスストアに出くわすし、気密性を増した昨今の車のなかは腹をくくれば仮眠もできる快適さだ。携帯電話の普及もあって電源さえあれば緊急連絡もたやすい。登山者のための避難小屋でもなければ、“ひとつ家”はそうそう見つけられない。見知らぬ赤の他人の家の戸を悲痛な顔つきでどんどんと叩く必要はなくなったのだ。

 “ひとつ家”でかつて繰り広げられた臭気漂う事件は影をひそめ、鬼婆による殺戮現場に似たものは街の只中にところを移した。通学路を急ぐ子供が姿を消し、刃物を振りかざす者がアパートに立てこもる。壁ひとつ隔てたところで今この瞬間も殴られ、蹴られ、刺されて、いたいけない生命が奪われる。目と鼻の先で血みどろの花がわさわさと咲き狂う様子には、憤怒を通り越して、重苦しく冷たい感懐しか湧いて来ないけれど、これがまぎれもない現実の修羅場だ。

 そんな時世の流れに連れて、創作劇の背景もゆるやかに移動し、いつしか“ひとつ家”は恐怖や陰謀が渦巻く中心点ではなくなったように思う。映画だってすっかり変質した。観客ひとりひとりが心の内に転換点を持っていると思うけれど、私の場合、実相寺昭雄の『曼陀羅』(1971)を観た際に違和感を覚え、画面への集中力を急速に失った。公開時に観たわけではない。ようやく目にしたのは、かなり経った名画座のオールナイト上映だった。カルト教団が海沿いの僻村にコミューンをつくり、構成員を増やす目的から海岸端のモーテルを運営する。入室したカップルの言動をモニターで監視して、鬱積を抱えた若者を見つけると言葉巧みに接近し引き込もうとする、そんな奇妙な幕開けだった。

 血みどろの殺戮劇ではないけれど、教団の教えに尾いていけなくなった純朴な娘はやがて自死の道を選ぶから、穏やかな内容とはやはり言いがたい。製作された当時の観客はそれなりに現実の手触りや雰囲気を味わったのかもしれないけれど、歳月を経て犯罪は都市に潜った。孤立よりも隠遁という方法で気配を押し殺し、隣人の目をたくみに避け、そして、時おり思い出したように密室に獲物を引きこんでは捕食した。その逆にカルト教団は大っぴらに大学のキャンパスを闊歩し、勧誘を繰り返すようになってもいた。より狡猾さを帯び、より大胆になっていた。実相寺の映画に描かれたアイルランドの石造りの孤城めいたモーテルの顔付きや閑散としたのどかな砂浜を見ながら、こんな“ひとつ家”めいたところに現代の闇は息づかないように思えた。

 あの映画にあったモーテルの外観が実は模型であったと知ったのは、ごく最近のことだ。ロケーションハンティングの足を重くした可能性がある。犯罪の舞台となる事を家主に伝えて了解をもらうのは相当に難儀であるだろう。それより何より、作り手のなかで現実とひどく乖離した物語と最初から観念していたのではなかったか。『レベッカ Rebecca』(1940)のマンダレイや『サイコ PSYCHO』(1960)のベイツ・モーテルといったずっと以前の犯罪映画の舞台ですら、ミニチュアと屋外セットで外観は補われていたではないか。

 森の奥まったところ、茫漠たる荒れ野の真ん中、風が右から左に渡っていくこんもりとした丘といった外周部は一見手付かずで安易に見えるかもしれないが、林や雑草、はたまた強風はいずれも凶暴でしたたかであって、それらに囲まれて建築物を維持するのは想像以上に苦労がともなう。空虚に見える名もなき植物群が実は現実的にも映画的にも装飾過多であって、厄介な相手なのだ。孤高を保つ“ひとつ家”は想像の産物であって、最初からこの世に無いと考えて良いのかもしれぬ。

 探すだけ時間の無駄と言える。夢想の中にしか佇まない、浪漫主義を薫らすとことん作為的な美術設定であるから、模型で作った方が早いし後腐れもない。“ひとつ家”に対してこんな判断が撮影現場で働くのは、至極当然のことと思える。


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