2017年6月3日土曜日

“ひとつ家”(5)


 “風景”から離れ、“ひとつ家”の奥へとふたたび分け入る。鬼婆伝説であいまいな印象を与える点のひとつは老女が鬼に変身するかどうか、つまり人間であるのかどうかであり、また、鬼と化して後に犠牲者の肉を食べたのかどうかだ。世に出回る鬼婆伝説の書籍をざっと眺めても、この箇所はバリエーションが豊富で固定されない。振り幅がかなりある。

 先述の笹間良彦の「鬼女伝承とその民俗―ひとつ家物語の世界」(*1)では、そんな老女のイメージの変遷についても綿密に調査されてある。笹間は曲解が後から後からどんどんと重なって、徐々に人喰いの性格がそなわったと見ている。「浅茅が原ひとつ家の婆は、盗みのための殺人であるので鬼という語は用いなかったが、安達が原のひとつ家は兼盛の歌の「黒塚に住む鬼」という語の誤解と、謡曲『黒塚』の影響によって、始めから鬼婆としてのイメージが定着したので、殺した人の肉を食べるということに作られた」とあり、人の想像力がおんなを人間離れした存在に貶めて行った、つまりは「作られた」存在なのだと捉える。(*2)

 インド古代宗教に登場する神々の様相や伝承の影響も少なからずあったと推測し、神話の幾つかも合わせて紹介している。たとえば荼枳尼天(だきにてん)や鬼子母神(きしもじん)といった人間を平気でむさぼり食う異神への畏怖を、荒野に住まうおんなの孤影に重ねたのではないか、そのように笹間は想いを巡らしている。人々は“ひとつ家”の建つ荒野を異界と見なした。身近な風土に巣食うリアルな伝承と理解しつつも、風雪に耐え切ってぽつねんと建ち、村人との交流を絶ってしまった“ひとつ家”と、それが在る端境の土地を冥境と捉えた。神秘性が、朦朧とした偏見こそが、老女の容貌をこの世の者とは思われぬ姿に変えていったのだ。

 さらに笹間の言及は突き進み、険しい領域へと手を差し伸ばす。民衆が容易に人喰い鬼婆を信じた背景にあるのは、江戸時代に頻発した食人騒動の影響であって、広く浸透したそのおぞましき記憶の堆積が鬼婆の造形に一役買った可能性を示唆するのだった。

 人間が人間を食う行為は現代社会では鳴りを潜めており、私の記憶にあるのはパリ人肉事件(1981)と東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988-89 被告の食人行為の告白を検察は虚偽と主張し認められているので真偽の程は分からない)ぐらいであるけれど、かつてはその手の妖しい噂が飛び交っていたらしい。異常性欲や支配欲とは結びつかない形で、純粋に飢餓をしのぐため、はたまた健康増進のために人は死骸を加工し果敢にこれを口にしていた事実もある。石井隆の一枚絵に惹かれて買ったぺヨトル工房の「夜想」のなかで、木乃伊(ミイラ)がこの日本に於いても薬として珍重され、盛んに流通していた事実を知って驚いたものだったが、ひと昔前の私たちの先祖にとっての食人行為は、意識の隅にぶら下がったもの、指先がちゃんと届いてしまう日常レベルの薬餌の一種だったのだ。

 “食人”という語句を頼りに二、三の本を手繰り寄せてみれば、なるほど江戸、明治それから大正を挟んで昭和の初めまで我が国と海をまたいだアジアの国々でその手の行為はいくらでも目撃されていた記録の有るのが分かる。たとえば、「人喰いの民俗学」という本と、澁澤龍彦の翻訳したサドの「食人国旅行記」を所載した全集の一冊を手元に置いてみる。サドの方は妄想が連なるだけの気がして感心しなかったけれど、付録で付いていた中国文学者中野美代子のインタビューなどは相当に強烈だ。(*3,*4) 

 読めば読むほど妙な気分になっていくし、きりがないのでほどほどのところで頁を閉じたのだが、人倫の道からひゅるりと脇に降り立てば、人は人をごく普通に、社会的な仕組みとして加工流通を認知さえして、平気で食べてしまえる動物なのだとよく分かる。人喰い婆を脳裏に想い描くことに往時の人はさほど無理など感じなかった点は十分理解できるのだった。

 社会から孤立し、食糧の調達がままならない点を踏まえて、いよいよ妄想は強まっていく。旅人を殺めるだけでなく貴重な栄養源として摂取する姿を思い描き、やがてイメージが固定化なっていく。“ひとつ家”の扉の奥で出刃を持ち、殺傷と解体、食人を夜毎繰り返す“普通の人間”が出現するのは、まったくもって自然だったという笹間の説は展開に無理を感じさせない。

 人間の生命は束の間だけ点る蝋燭に過ぎず、あっという間に費えて吹き消され、暗く湿った地中へと戻っていく。生きている間に照らし出されて目にするものなど、ほんの僅かの物象であって、そこで築いた常識など一過性のあやふやなものだ。有り得ない、許し難いと思うものが、ちょっと年数を経てみれば存外ふつうの事象だったりする。

(*1):「鬼女伝承とその民俗―ひとつ家物語の世界」笹間良彦  雄山閣出版 1992
(*2): 同 202頁
(*3):「歴史民俗学資料叢書2 人喰いの民俗学」礫川全次 批評社 1997 
(*4):「澁澤龍彦翻訳全集8」河出書房新社 1997  付録「月報8 澁澤龍彦のいる文学史 物語の無限宝庫・アジア」

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