2017年6月24日土曜日

“絵師の振幅”(1)


 先にも書いたが、“ひとつ家”での殺傷を題材とする著名な絵に、月岡芳年(よしとし)の「奥州安達ヶ原ひとつ家之図」(1885)がある。しわだらけの婆に捕まり、荒縄で縛られた妊婦の姿が描かれる。ぽってりと突き出た白い腹がいかにも哀れだ。芳年にはよく似た構図のものが他にもあって、それは「英名二十八衆句 団七九郎兵衛」(1866)といい、半裸のおんなを逆さにして天井からぶら下げ、画面左手に配置している点はそっくりだ。約十年の製作期間の隔たりがあるにもかかわらず、両者はつよく共振する。

 「英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)」は、いわゆる“無惨絵”として世に知られた連作だ。この「団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)」においても描写にまるで遠慮がなく、なぶり殺しとはこういう事を指すのか、被害者のおんなは白い肌をえぐられ、おびただしい鮮血にまみれ、息も絶え絶えの苦悶の表情だ。右側で刀を振り上げている男は魚売りという設定か、鮟鱇(あんこう)をさばく要領で人間の“吊るし斬り”を実践してみせる。なんとも過酷な絵柄であって、感想が思うように浮んでこない。

 わたしたちが映画や漫画を見て興奮しそれを魂の糧にするように、幕末の世に生きた市井の人たちにとってこの絵は驚異であり、恐怖であり、加えて涙を誘発する悲劇の役割を担った。強烈な絵柄と色彩に人々は深く酩酊し、あえかな悦楽を目の奥で味わったのだろう。

 ふたつの絵は芳年の代表作として揃って画集に収められる事が多いのだが、両者を連結する立ち位置になんと“食人”を描いたものがある。「魁題百撰相(かいだいひゃくせんそう)」の一枚、「佐久間大学」(1868)と題された絵であって、正確には肉を食らうのではなく、狂気をたぎらせた目を中空へと向けた男が、生首をむんずと摑んで頭上に掲げており、切断面からぼとぼとと滴り落ちる血を舐めるのか飲むのかしている様子が描かれている。男の口から覗く舌が丸く膨らんで見えることから、ごくりごくりと飲むのではなくって、ぺろぺろと舐めていると捉えるのが解釈として妥当だ。

 食べる行為と飲む舐めるでは勢いが違い、生き胆を切り取るとか、人肉をむさぼるといったひとつ家の鬼婆の残虐行為と直線的には結びつかないけれど、異様な粘性を持ってこれらは溶着してひとつの世界をつくり、私たちの気持ちにずんずんと迫ってくる。極限状態に置かれてはじめて見えてくる生と死の光景のあることを示し、実際そういう景色が今もどこかで産まれ落ちているのだと諭される。

 「魁題百撰相」はよく知られたように、彰義隊ら旧幕府軍と新政府軍の間で行われた戦い、いわゆる上野戦争(1868)に取材したものが含まれる。(*1) 取材といっても従軍記者ではない訳だから、銃声が途絶えて殺伐とした気配が消えたところでそろそろと雨戸を押し開き、こわごわと足を運んで惨状を目撃したのだ。どんな風に往時の町民が上野戦争に関わり、これをどのタイミングで目に焼き付けたかは、森まゆみの「彰義隊遺聞」に詳しい。

「戦さが終った。それ見に行けッてんで、若え奴らは見物に出かけたんだ。お山にはいると人間がごろごろ倒れていた。みんな彰義隊だ。死んでいたが、その中の一人が息があって、手招きをしていたそうだ。」
「その死んでいるのをいい事にして官軍の連中がまたむやみに斬る。腕やら肩の肉などは刺身か膾(なます)のようになってしまう、それを後から後からとまた斬る」(*2,*3)

 こんな陰惨な目撃譚が列を成している。おそらく芳年も何十もの戦死者の骸を目にし、その臨終を幾つか見守ったのだ。中には鉄砲や刀で自害した者もいたろうし、焦点の定まらぬ瞳を中空に投げたままの狂人も交じっていたことだろう。絵師としてこれを観察し、もしかしたら写生すらしたかもしれぬ。

 頬を上気させた恋人たちが腕を組んで散歩し、子供がザリガニ釣りに夢中になり、新しい家族が動物の檻の前で憩う今の上野公園からは想像し得ない無惨な時間が横溢したのであるし、ひとりの絵師の魂をずたずたに蹂躙した事実は重たい。死体の山を前にして、芳年は何を思い、その後どう生きたのか。精神を病んだというその最期と、上野での戦死者の目撃は一切関わりのない事だったろうか。

(*1):「《魁題百撰相》の内容は、画題から見ると歴史上の人物を取り上げた歴史画的様相を示しているが、現実は幕末から明治初年に起きた、幕府軍と官軍の戦いに参画した人々を、一人一人の人物の個性を良く捉えて描き上げたものである。作品と画題が異なるのは、時の政治の検閲を意識したものと考えられる」 「魁題百撰相 月岡芳年」 町田市立国際版画美術館 1991 まえがき 
(*2):「彰義隊遺聞」 森まゆみ 新潮社 2004年 180頁 239頁





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