2017年11月25日土曜日

背景(バック)から風景へ~つげ義春と石井隆~(4)


 古書店を回遊していたところ、日に焼けた評論誌が目に留まった。めくってみると石井隆に対する寸評が載っていて、二度三度と繰り返し読んでみたのだが、どうにも呑み込めない。大友克洋(おおともかつひろ)と石井を比較した上で評者は「時代とずれている」「しばらく出番はないような気がしてしまう」と断じており、その語調にまるで容赦がないのだった。そこまで書かれてしまう義務があるのか、何か石井は悪いことをしでかしたものだろうかと無性に悲しくなる。

 抜粋するとこんな具合だ。「石井隆はドラマを語り始めた。ただ、残念だったのは、石井隆がやろうとした方法論を、大友克洋が、いかにも今風に、しかも巧みに、読者の嗜好にあうところでやってしまったことだ。その差は、叙情と叙事の差であり、人への愛情の持ち方の差であり、邦画と洋画の差であるといったことになるのかもしれない。」(*1) この後に先の激甚でいささか頓狂な裁断、「時代とずれている」等の一文がつながっていく。

 別のところでも当の評論家は大友に触れており、「背景(バック)」ではなく「風景」に進化していると説いている。どうやら評者は緻密に描写された建築物や街路のつぎつぎに崩壊する様で耳目を驚かせた【AKIRA】(1982-90)背景画から刺激を受け、いつしか石井劇画のそれと比較を始めてしまったようだ。確かに【気分はもう戦争】(1982)、【童夢】(1983)から【AKIRA】に至る大友作品は当時の若者の興味を引きつけ、あたかも密書か預言書のように手から手へと伝わって読まれていた。そんな大友の出現により、石井の劇画はみるみる影を失ったものだろうか、本当に「時代とずれて」しまったものだろうか。

 60年代や70年代初めの世相については年齢的に口を閉ざすのが筋だけど、1987年当時、石井と大友双方について熱心に眺めていた私には多少なりとも出しゃばる権利がそなわるように思う。寸評が書かれた1987年というのは石井にとって【魔楽】(1986)執筆の頃であり、その後には【雨の慕情】(1988)、【雨物語】(同)、【赤いアンブレラ】(同)といった佳作小編の発表が相次いだ時期だ。描線に艶がより増し、コマ割りも的確で、読者の視線と思考をなめらかに誘導して完成の域に到達していた。ひとつの場面に時には数頁を割き、長回し風の構成を恐れなく描き切って、自由自在に時間を操る術は堂々たる大家のそれだった。対する大友の方はと言えば、【AKIRA】連載時に相当する。それにしても、なんだか資格試験の引っ掛け問題みたいな感じでちんぷんかんぷんだ。

 私見に過ぎないが、大友の背景画は一見して複数の、もしかしたら相当の数のスタッフを採用しなければ表現し得ない次元と私には思われたから、そこに作家性を強く見い出すことは最初から無かった。前景と後景のタッチをここまで均一化することのこだわりには既存の漫画技法からの脱皮や貫通の感覚があったのは確かだが、衝撃はなかったのだ物語うんぬんではなく、人物描写でもなく、小道具、つまり近未来を彩るハイテク機器と石井劇画での場末の酒場、ひしめく酒器やおんなのドレスとの比較でもなくって、あくまでも街並みや建築物といった背景処理に限った一面なのだけど、衝撃という程の目覚しさはなかった。大友がやろうとした漫画表現の一部は、石井の到達した世界の片翼に過ぎないのではないかと感じられた。

 大友の出現以前から、石井隆の劇画世界とは「風景」に真向かう時間に他ならなかった。人物との密接性、感情や思考との連結、世界観(タッチ)の統一を石井は既に為し遂げていた。日毎夜毎にそのハイパーリアリズムに舌鼓を打ち、全身すっぽり浸かっていた当時の私は、大友漫画の出現を割合と冷静に捉えていた。大友の背景画はどれだけ線を重ね頁を連ねても、“一種の現象”として目に映った。愉しんではいたのだが、異郷ではなく、革新でもなかった。

 そもそも、あの当時読者を牽引した大友漫画の持ち味、魅力とは、設計集団に君臨する建築士並みのすぐれた統率力で開花したものであり、その力量こそがただただ眩しかった。プロダクションシステムを構築し直し、背景描画から積極的に“個性”というものを奪い、その上で独自の世界を創造していた。粘性を同居させたその妥協なき一種の冷徹さこそがずっと斬新に思えたし、若い目には驚異であり刺激だったように思う。

 評論家の文章をもしもあの当時に目にしていても、そんなに懸命になって同じ土俵に載せなくてもいいのに、と、きっと首をかしげたように思う。両者は同じ漫画というフィールドに立つ者同士だったが、まったく違う競技種目のアスリートだった。うまく言葉を操れず、あの時の心象をきちんと表せなくて悔しいけれど、よい意味でも悪い意味でも衝突する事はなく、感動の芽を育てる場処がちょっと違っていたのだった。

 そう思うならそのまま受け流しちゃえばいいのに、なんでわざわざ古い本を買って来てまでして過去の話をほじくったりするのよ、と他人は思うだろうが、こうして行をつないで咀嚼し、なんとか呑み込もうとする理由は、他者の見地もまた石井の多層宇宙を読み解く上で大切と思えるからだ。どんな言葉もヒントになる。無碍には扱えない。

 「人への愛情の持ち方の差」という箇所はいまひとつ要領を得ないけれど、石井と大友のどちらかの手法が「叙情的、邦画スタイル」であり、もう一方が「叙事的、洋画スタイル」と言いたいのはどうやら確かだ。そして、おそらく評者は石井を「叙情的、邦画スタイル」と受け止めた上で、「今風ではなく、巧みでもなく、読者の嗜好に合わない」と言い切っている。誤った解釈とはもちろん思うが、発行から三十年が経過したからこそ、誌面に刻まれてしまったこの言葉は俄然深みを増してくると感じられる。

 言をそのまま借りるなら、石井は劇画と映画の垣根をこえて「叙情的、邦画スタイル」を堅持しながら、この三十年間ずっと活躍して来たことになる。此処にこそ作家という存在の本分がかえって隠れ潜むのではないか。「しばらく出番はない」どころか、映画監督としてコンスタントに作品を送り出し、青い雨に煙る「風景」を海外にまで贈り届けている。「今風、読者の嗜好」は絶え間なく変転するが、石井は己のタッチを守り抜いたのである。

 つげ義春を師表と仰ぎ、叙情をとことん突き詰めていく。邦画の鼓動と息吹を胸中にしかと温存し、一個の人間への愛情を永続的に持ち続ける。それの何処が劣ったものと思うのか。決して後ろ向きでもなければ、弱さでもないだろう。むしろ強靭と思う。時代に翻弄され、大事なものを見失っていたのは残念ながら評者の方であり、悪罵に耐え抜いて石井は千山を踏破し、最終的に勝ち残って今に至っている。ほかの作家や評者に勝ったということではなく、時代という濁流を泳ぎ抜いたという点で圧倒的な勝利者と思う。

 列車に揺られながら読み進め、漠然とそんな事ばかりを考えた。あれから既に一ヶ月が経っている。雨に湿って重くなった銀杏の葉をゴミ袋に押し込みながら、秋空の下、ひとりの作家の暗闘の歳月に今も気持ちを馳せている。

(*1): 「ユリイカ」1987年2月号 特集マンガ王国日本! 青土社
「現在マンガの50人」 米澤嘉博(よねざわよしひろ) 198頁

2017年11月24日金曜日

招かれた者~つげ義春と石井隆~(3)


 劇画家としての石井隆は、これまでに三十冊近い単行本を上梓している。自作だけをまとめた雑誌の増刊号も加えれば相当の冊数に上っていて、機会に恵まれずに消えた無数の絵描きたちと比べれば、やはり確固たる地盤を築いた作家と言えるだろう。それ等をざっと総覧した上で石井隆という作家を最もよく表すのはどれかと問われれば、以下の5冊を迷いなく選ぶ。

「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985
「名美Returns―石井隆傑作集」 ワイズ出版 1993

「黒の天使 Ⅰ (石井隆コレクション (1))」 まんだらけ 1998
「黒の天使 Ⅱ (石井隆コレクション (2))」 まんだらけ 1998
「曼珠沙華 (石井隆コレクション (3))」まんだらけ 1998

 作品論的な視線にもとづいての抽出ではない。石井の絵なり物語は、たとえそれが風俗誌に寄せられた題名さえ持たぬ小さなカットでも、また、頁数の限られた事件物であっても、往時の世相との関わりや創作歴での立ち位置を知る上で貴重である。絵画の世界では若描きが後年の重要作品と連結することは間々あるのだし、特に石井の場合、かつての作品群と現在の取り組みが還流するのが常だ。世の中には「後ろには夢がない」、未来のみを見やることが活路につながるという言葉もあるけれど、石井世界においては過去にも夢があり未来はある。郷愁や自己模倣に溺れるのではなく、徹底して自作の精錬を行なうのが石井の作家性のたしかな一面と思う。

 天上へ向かって“より高く”なのか、底なしの淵に向かって“より深く”なのか、見方は読み手によって変わるけれど、新旧の作品が合わさって奔流となり、渦を産んで、劇的空間へと我々を導いていく。これまでにもそんな独特の技法が露わとなっている訳だから、過去のどの物語、どのコマも一つとしておろそかに出来ない。そもそもが若い時分の作品からして繊細を極め、どれもこれもが魂の糸で紡がれている。見ていて無性に愉しくって、どの本が良いとかあの作品は悪いとかの甲乙はつけ難い。総てが石井隆という宇宙の現在(いま)を構成して見える。

 それでは上に名を上げた数冊にが宿るかといえば、石井隆というひとりの人間の嗜好が浮き彫りになっているのであって、魂の核(コア)が透視され、創作の原動力が読み取れる点が秀逸なのだ。日常からの逃避や鬱憤の処理装置といった役どころを担うのが石井劇画の寛容さであり、濃厚な色香がときに読み手を煽ることを否定するつもりはさらさら無いけれど、もう一歩踏み込んで作家本人に興味を抱き、共にこの時代を生きる者として凝視め直すとき、上記の数冊は譲れない関所となってくる。

 「黒の天使 Ⅰ、Ⅱ」および「曼珠沙華」に収まった異例のインタビュウ、幼少年時から青年時に至るまでの映画遍歴を問われるままに答え続ける「記憶の映画」(聞き手 権藤晋)と題された頁については再三この場で取り上げている。ひたすら映画世界への没入を夢に見つづけ、生業にしてからは全霊を捧げてきた石井の素養がどこで醸成されたのか、読んでいて愉快に無理なく了解されていく。ただただ映画の話に興じるばかりで軌道を逸脱する変化球と見せて、実は剛速球の作家研究リポートであり巧みな企画と思う。

 「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」については何をもって選んだかと言えば、これは石井隆の漫画家つげ義春への深い敬愛がほとばしり、見ていて熱くこころに沁み入る点である。厖大な日本映画と共に石井の核(コア)につげ漫画が在り、どれほど激しく降り注ぎどれほど強く結合したかを示すものとなっている。

 「名美Returns―石井隆傑作集」において石井は最良の理解者である編集者高野慎三に相談し、つげ義春との対談を実現しているのだが、その内容は完全に熱狂的なファンが憧れの作家を前にして話すような具合であって、微笑ましいぐらい丁重誠実であり、表情豊かなやり取りになっている。わたしが石井の【赤い眩暈(めまい)】(1980)をはじめとする数篇につげ作品【ねじ式】の写し絵を見てしまうのは、なにも病的な妄想癖に因るのでなく、石井がつげへの愛情をまったく隠そうとしないからだ。

 「石井隆自選劇画集」は書名から解かる通り、全編に渡って石井の美学を感じさせる造りとなっている。自作劇画の選定から装丁、付録の小型写真集といった何から何までもが石井の美意識を感じさせる一冊に仕上がった。書の冒頭で石井は、三枚のモノクロームの写真を載せている。よくある著者近影なのだが、どれもが肩の力が脱けていて興味深い。

 当然ながら“自撰集”という書物は作家生活のなかでも特別に気合が入るものであって、自身の影像を貼り付けるに当たっては念入りに選り分けるものではあるまいか。机に向かい眉をひそめ、深遠な目つきで筆を握る仕事場の姿であったり、糊の効いた着物を纏ったり洒落た帽子を被って庭に降り立ち、泰然としてカメラをちょっと睨んでみたり、自己演出に余念がないのが通例である。石井が選んだ三枚の写真はどれもが構図、照明に人の手が加わっていない自然なスナップ写真の域にある。

 それぞれに説明が添えられている。「東京・東中野の仕事場で。(中略)壁の油絵は片山健画伯の作。愛蔵品である。」「山根貞男さんの『手塚治虫とつげ義春』(北冬書房)の出版記念会で、つげ義春さんにお会いした夜。」「著者のシナリオ最新作『ラブホテル』のロケ現場で。左から監督の相米慎二さん、照明の熊谷秀夫さん、〈村木〉の寺田農さん、〈名美〉の速水典子さん」とあり、三枚目の映画撮影の現場は緊張と疲労を匂わすもので、相米の横に座る石井の表情は硬いのだが、前の二枚は歯こそ見せないが破顔一笑の風情がある。ゆったりとした気持ちがこちらにも伝わる。もともと石井の笑顔には人を魅了してやまない力があるのだけれど、ここでの表情はまったくの自然体であり、等身大の人柄がそのまま印画紙に定着して見える。

 「自選劇画集」の出された1985年というのは『ラブホテル』以外にも『魔性の香り』(監督池田敏春)に脚本を提供してみたり、劇画家としても掌編の佳作を連発していた時期だ。さすがに“劇画界のドストエフスキー”という美称は誰も用いることはなくなったが、死とエロスの作家という異名を冠する点に揺らぎはなく、本の購入者のほとんどがこれを確認するために手に取ったはずである。そんな石井の自選集の冒頭を飾るにしてはあまりにも平穏な、あまりにも暖かな色彩に満ちた写真たちであった。

 説明文を読んで明らかなように、これら写真の光軸上に立つ主役は石井ではない。三人の作家、片山健、つげ義春、相米慎二を自身の本へと招待し、敬愛の念を刻んで見せている。彼らを最上級のゲストとして扱い、祝宴の始まる間際に壇上に立って献辞を贈っているのである。創作の起点をそっと打ち明ける、密かな読者への目配せでもあるだろう。

 躍進目覚ましい作家が自撰集の編纂を任されたとき、往往にしてこの手の招聘が起こる。ゲストの入場が瞳に留まって会場がどよめく。自分なんかよりも彼らを見てよ、ねっ、凄いよね、嬉しいよね、と視線をうながし、ほかの客たち(読者)のざわめく様子に微笑んでみせるホストの境地が見え隠れする。ゲストの方が燦然と輝いてしまって、主催者たる己の影を薄くしても一向に苦にならないのだ。

 話がそれてばかりで申し訳ないが、たとえば、映画監督の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が1977年に出した評論本「闇への憧れ」(*1)においては、同業者である加藤泰(かとうたい)、詩人の大岡信(おおおかまこと)、それに石井隆が招かれている。これだって上と同様の一種の献辞であろう。

 実相寺はあとがきで「私の書き散らした原稿だけで一興行打てるとは思っていない」と語って、自身の文脈や文体の硬さを気にする余り、「退屈と思う人の為に」、「嘘でも良いから」、「色々な粉飾を考え」た、と続けて、あたかも余興役として三人を登用したに過ぎないような書き方をしているが、実際はそんな単純なものではない。謙遜を字面どおりに受け取ってはいけない。ゲストの登場する頁には実相寺の真(まこと)は無いなどと早合点してはならないのだ。彼らこそが真であり核だ。作家という存在に向き合う研究者は招待者のリストに入念に目を凝らし、ホストたる作家と彼らとを結ぶ線が何であるかを真摯に見定める必要があるのだし、この挿画は本人の筆ではないから、赤の他人との対談だからと軽視する乱暴な思考の分断があってはならない。

 人の素の部分を明瞭にするのは、絵画でも、絵でも、芸能でもスポーツでも何でも良いが、突き詰めれば“何を愛するか”に尽きる。どんな生い立ちの、どんな容姿の、どんな精神的堆積をもった人物に対して愛情と笑顔を注ぐのか。敬愛の向かう先を知ることは、人物理解の最速にして誤りのない里程標だ。

 石井隆の内部にはつげを筆頭に幾人もの愛情の対象者が同居し、彼らの目に応えるべく創意を凝らすところが少なからずある。「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」のどちらにも【赤い眩暈】が収まっているのも偶然ではなかろう。石井劇画の代表作のひとつには違いないが、ゲストとして招んだつげ義春に対する深慮が働き、あのような造本となったと捉えてもあながち間違っていないと思われる。

(*1):「闇への憧れ―所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄 創世記 1977 最近になって復刊されたが、頁数と価格設定のかね合いから上記の石井ほか三人の記述はそっくり別冊へと振り分けられている。故人の魂をあたかも“腑分け”するかの如き乱暴この上ない編集方針と思えなくもない。別冊がどう仕上がるか、いまは固唾を呑んで待つばかりだ。



2017年11月18日土曜日

面影の連結~つげ義春と石井隆~(2)


 石井隆の劇画群には、他の漫画家の作品と面影を連ねるものが幾つか交じっている。わたしの思い過ごしでなければ、中でもつげ義春(よしはる)と相貌を近しくする短編が多い。石井の劇づくりの工程を推察する上で、つげの存在に思いを馳せることは極めて重要と考える。この件は過去何度も書いているから重複箇所もあるけれど、こころ向くまま泳いでみよう。(*1)

 【ねじ式】(1968) はつげの代表作であると共に、日本漫画史におけるエポックとしてつとに知られている。波しずかな海辺にて得体の知れぬ海月(くらげ)に腕を噛まれた男が、もう一方の手で傷口を押さえながら浜に上がり来る場面から【ねじ式】は幕を開く。おそらくはまだ齢若いその男は、上半身は裸であり、お世辞にも筋骨隆々とは言えず、むしろ貧相な体躯からは物悲しさが漂う。

 腰から下は黒っぽいズボンを着用していて、靴は履かずに裸足のままだ。身体と比べて頭でっかちであり、海水に濡れた髪は額にゆらりだらりと柳の枝葉のようにのし掛かる。手当してくれる場処を探し求め、若い男は幻想とも夢とも判らぬ町、もしかしたら冥界かもしれぬ路地裏をとぼとぼと歩き回るのだった。

 石井は【赤い蜉蝣(かげろう)】(1980)、【赤い眩暈(めまい)】(同)、【真夜中へのドア】(同)と生死の境を往還するおんなの話を立て続けに発表するが、これ等の劇中に忽然と現われ、おんなの傍らにたたずむ奇妙な風体の男がひとり居り、その見目形は【ねじ式】の青年のそれと酷似している。村木的な骨格や鼻髭を時にたくわえ、サングラスや靴を着けたりもして、具体的な人相なり服装は微かに違ったりはするのだけれど、上半身が裸で柄のないズボンを着用し、回によっては眉薄く、頭頂部の平らな辺りは随分と似ているように思う。

 【赤い蜉蝣】や【赤い眩暈】は、幽明の境を歩んでみたものの、結局は生還を果たせないままに終わる薄暗く厳しい物語だ。一貫して同じ男が登用される思想的背景には、冥府案内の役回りはこのキャラクター以外にはあり得ない、という石井の確固たるこだわりが有る。身体機能の損耗が極まり、こと切れる直前となっていよいよ正気を失っていく。思念がはげしく断裂し、記憶が錯綜していく。そんな精神の崩壊する様になぞらえてか、次々と脈絡なく変幻していく舞台背景についても【ねじ式】と石井の数篇は極めて似た風合いがあって、両方を読み終えてみれば、意図的に繋がれたもの同士と捉えることに異論を挟む者はいないはずだ。つげ作品の空気と設定を石井は十年経てから借用し、己の劇にせっせと輸血している。

 上記の例ほど鮮烈ではないけれど、【真夜中へのドア】の別の場面にも共振を覚える箇所がある。主人公の若いおんなはモノクロームの古い欧州映画さながらの寂寂たる黄泉空間をさ迷うのだが、やがて水族館風の洞穴に至る。例の半裸男と行き着いたのだけど、通路側面の巨大水槽のガラスが急にぶわぶわと膨らんできておんなを仰天させるのだった。水圧に耐え切れなくなったのか、それとも、自ら崩壊すべき時が満ちてそうなったのか、遂にガラス板は轟音とともに砕き散って、大量の水しぶきがおんなの頭上から降りかかる。

 このくだりなどは、つげの作品【外のふくらみ】(1979)と実際よく似ている。窓ガラスや鏡面が割れるショッキングな描写というのは映画や漫画では常套であり、珍しいものでは決してない。しかし、硬質のそれが急速に軟らかさを増していき、モワモワと風船のように膨張してこちら側に迫って来るという発想なり描写は珍しく、ずっと私は探し続けているのだけど他には見つけられないでいる。(*2)

 死線を扱ったもの以外にも連結を匂わせる作品があって、たとえば本好きの少年と書店のおんなとの淡い交信を描いた石井の【白い反撥】(1977)は、取り扱うのが新刊書と古書の違いはあるけれど、やはり小さな本屋が舞台のつげの作品【古本と少女】(1966)と共振する。書店を主要な劇空間に設定することは石井作品においては他に見当たらないことから、ほのかな“不自然さ”が見止められる。

 つげの【古本と少女】の終盤にて、少年と店番の少女との間には体温のある交信が成就する。恋情とは到底呼べぬ、ようやく挨拶を交わす程度のささやかな結線ではあったが、幸せな幕引きであったのは間違いない。それに引き換え、年長のおんなに対して一方的に想いを募らせた挙句、呆気なく踏みにじられた形となった少年の失恋劇【白い反撥】の終盤は、そぼ降る雨が加わって一気に湿度が増している。可愛さ余って憎さが十倍の言葉同様、やりきれない気持ちを少年は鬱積させ、書店のおんなを犯し、さらには鋭利な刃物で傷つける過激な幻影へと取り込まれて悶々と過ごす羽目となる。

 顛末の表層のみに限って言えば、両者は光と影ほども対象的である。しかし、石井はその決着の付け方に彼らしからぬ乾いた風を送り込み、温かな余韻を持たせることに成功しているのだった。一種清々しい、毒気のない青春劇として【白い反撥】を締めくくっている。港の防波堤を少年はひとり訪れ、ざわつく気持ちを鎮めようとするのだったが、彼が力任せに投げ放った小石がコンクリートの厚い岸壁に当たって、カッツーンと高く乾いた音を響かせて一直線に彼方へと飛んでいく。石井は風景画を駆使して登場人物の懊悩を代弁させる術に巧みだが、一頁を三等分に割り、小石の護岸との衝突から飛翔を丁寧に描く展開は石井世界のなかでは異質な挿入と言えるだろう。

 少年の内部に寂寥と憤激が逆巻いていたのが、小石の三コマで見事に吹っ切れている。ひとは他人との接点を激しく求めながらも、他者の担う生活や責任、それに魂の内奥に巣食う思念や感情といったもろもろを支え合うことはなかなか出来ない。人が人を前にした時にはどうしようもない事ばかりなのだ、結ばれない事の方が圧倒的に多いのだ、と、少年のこころは悟るものがあったに違いない。妄想の中ではおんなを切り裂くばかりであったが、刃先は結局のところは自身の甘い想いを裁つ為に振り下ろされていたのだ。物狂おしい腕先の上下運動と狂恋の情をそのまま小石に託して、少年は思い切り遠くへと投げ捨てている。静謐な描画ながらも読み手のこころは濡れふるえてしまう絶妙なカットだ。

 これなどはつげの作品、【沼】(1968)のやはり終幕で放たれる沼岸でのズドーンという猟銃の号砲と間合いに相通じるものがある。石井世界らしからぬ、と書くと𠮟られてしまいそうだが、実際、陰鬱でやり切れない雨音を裂いてまったく爽やかな拍子が刻まれていて、この転調と異相はなんだろうかと読んだ当初から大層驚かされたものだった。

 これ等を先達からの“影響”とか“登用”と単純に捉えてはなるまい。石井がつげに積極的に歩み寄っている証しであり、一種の恋文、ひそやかな告白であったように思われる。

(*1): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=275969168&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=336561051&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=429129480&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=722581098&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=717425802&owner_id=3993869
(*2):つげ義春の「外のふくらみ」は、1976から77年に書かれた【夢日記】(「つげ義春とぼく」 昌文社 所載)を原型としている。厳密に言えばこの【夢日記】の挿画と合わせて三点がイメージを共有する。





2017年11月4日土曜日

逢魔が時~つげ義春と石井隆~(1)


 交通事故に出くわした。いや、事故とは呼べない程度の軽い接触であり、深刻な話ではない。帰宅ラッシュの時間を迎えて幹線道路は混み合い、歩道はサラリーマンや学生の姿で溢れかえっている。一日の課題を何とか終えた各人の顔には安堵と弛緩が同居しており、和やかな空気が通りに漂っていた。路地のような薄暗いところから徐々に夜へと移ろって、周辺の照明看板が活き活きとし出した頃だった。

 白いハイブリッド車が大通りから脇道に左折しようとして、ハンドルを切りながらじんわりと減速した。私を含む人間の群れをやり過ごそうとしている。ぱたぱた、こつこつと靴音を立てて、その鼻面を列を成して穏やかな顔の人たちが行き交うのだが、一台の自転車が音もなくそんな歩行者を追い抜いて、停止寸前の車の前へと突進した。

 がちゃんと音を立てて自転車は横倒しとなり、後ろの車輪は自動車のバンパーの下に潜り込んだ形となった。乗用車と舗装路面との隙間が狭まっていて、自転車の車輪はそこにぎゅっとはまった具合だ。よくよく見ればハイブリッド車の前輪タイヤが自転車の車輪をほんの少し踏みつけており、水草を食んだばかりの河馬みたいな顔つきだった。いずれにしてもそれがかえって幸いし、自転車は反対方向に跳ね飛ばされることなく、ゆるゆると時間をかけて斜めになっていったのであって、それにともない男性の身体もあれあれという感じでのんびりと倒れていき、頭を強く打つことなくて済んだのだ。

 その人は最初自転車の下から脱けるのに苦労していたが、程なく人垣の真ん中でやや恥ずかしそうに立ち上がって、次に自分の手で自転車を数秒かけて車の下から引きずり出した。一連の出来事がまさに目の前で起きたものだから、「大丈夫ですか、足は(抜けますか)」と最初にこの私がおずおずと声を掛け、その後で数名の男女が駆け寄って、口々に怪我はないか、どこか痛いところはないかと尋ね、中には110番へ連絡を取ろうとする勤め人風のふたり組もいて、都会でもこうして温かい人情が花ひらくのかと内心驚き、当事者ふたりには誠に申し訳ないけれど、ちょっと優しい気分になれた。

 警察を呼んでしまったので正式な事故の扱いとなってしまうが、停止する寸前に勢い込んで自転車が走り入っており、どちらにも責任があるような無いような状況だった。怪我も損害も大した事はないようだったので、双方ともに頭を下げて終わりになるケースかもしれない。アクシデントではなくハプニングに仕分けられる出来事だった。それなればこそ、呑気に今こうして綴ってもいられるのだが。

 携帯電話から石井隆ゆかりの古書店に連絡して道案内を乞うたばかりであり、直ぐにも顔を出しておきたかった。座席を予約済みの列車の時刻も迫っていたから、警察を呼んだ親切な勤め人にはすまないけれど、その場を彼らに任せて人の輪からそっと離れた。少し卑怯だったかな、男らしくなかったかな、と、落ち着かない気分が正直言えば今も胸に残響する。

 不謹慎ながらあの時、石井の劇画【おんなの街 赤い眩暈】(1980)のラストカットに紛れ込んだような錯覚を覚えた。交通事故で頭部をしたたか打って血を流し、路上に横たわるおんなの話だ。朦朧とした意識の中で黄泉を旅する幻想譚なのだったが、宙を見つめて痙攣するおんなの身体を通り掛かった男女数名が取り囲んで、一部は屈み込んで顔を覗きながら、大丈夫か、救急車を呼んだからね、と、心配そうに声掛けしたりする様子が描かれていた。あんな深刻な場面ではもちろんなかったけれど、魔の刻は誰に予兆を与えることもなく突如現れて、人を非日常へと強引に連れ去っていくことは再確認させられた。

 目的の店で主人に電話の礼を言い、あらためて挨拶を交わしたところ、寡作で知られる漫画家つげ義春に会話内容が飛びもして予想外の充実があった。石井の【赤い眩暈】とつげ義春の作品とは水面下で交信するものがあると勝手ながら私は解釈しているので、妙に濃厚な時の流れを感じてしまう。

 狭い階段を下りて外に出たら、もうすっかり暗くなっていた。今更ながら調べると逢魔が時は大禍時とも書き、魑魅魍魎に出会う禍々しい時間帯と書かれている。あの時、私たちの側にいたのは何者だったのか。高速度撮影に獲り込まれた具合に倒れゆく自転車の様子を思えば、“善き存在”が傍に居てくれたのではなかったか。自転車と車の接触事故がいかに重症化して手に負えないものになるか、わたしは嫌というほど身近で体験している。不幸中の幸いとはまさにあの瞬間であり、ささやかな奇蹟だった。そのときからずっと【赤い眩暈】とつげ義春へと意識が引きずられてもいて、ともすると夕暮れのT字路に舞い戻っている。