2017年11月4日土曜日

逢魔が時~つげ義春と石井隆~(1)


 交通事故に出くわした。いや、事故とは呼べない程度の軽い接触であり、深刻な話ではない。帰宅ラッシュの時間を迎えて幹線道路は混み合い、歩道はサラリーマンや学生の姿で溢れかえっている。一日の課題を何とか終えた各人の顔には安堵と弛緩が同居しており、和やかな空気が通りに漂っていた。路地のような薄暗いところから徐々に夜へと移ろって、周辺の照明看板が活き活きとし出した頃だった。

 白いハイブリッド車が大通りから脇道に左折しようとして、ハンドルを切りながらじんわりと減速した。私を含む人間の群れをやり過ごそうとしている。ぱたぱた、こつこつと靴音を立てて、その鼻面を列を成して穏やかな顔の人たちが行き交うのだが、一台の自転車が音もなくそんな歩行者を追い抜いて、停止寸前の車の前へと突進した。

 がちゃんと音を立てて自転車は横倒しとなり、後ろの車輪は自動車のバンパーの下に潜り込んだ形となった。乗用車と舗装路面との隙間が狭まっていて、自転車の車輪はそこにぎゅっとはまった具合だ。よくよく見ればハイブリッド車の前輪タイヤが自転車の車輪をほんの少し踏みつけており、水草を食んだばかりの河馬みたいな顔つきだった。いずれにしてもそれがかえって幸いし、自転車は反対方向に跳ね飛ばされることなく、ゆるゆると時間をかけて斜めになっていったのであって、それにともない男性の身体もあれあれという感じでのんびりと倒れていき、頭を強く打つことなくて済んだのだ。

 その人は最初自転車の下から脱けるのに苦労していたが、程なく人垣の真ん中でやや恥ずかしそうに立ち上がって、次に自分の手で自転車を数秒かけて車の下から引きずり出した。一連の出来事がまさに目の前で起きたものだから、「大丈夫ですか、足は(抜けますか)」と最初にこの私がおずおずと声を掛け、その後で数名の男女が駆け寄って、口々に怪我はないか、どこか痛いところはないかと尋ね、中には110番へ連絡を取ろうとする勤め人風のふたり組もいて、都会でもこうして温かい人情が花ひらくのかと内心驚き、当事者ふたりには誠に申し訳ないけれど、ちょっと優しい気分になれた。

 警察を呼んでしまったので正式な事故の扱いとなってしまうが、停止する寸前に勢い込んで自転車が走り入っており、どちらにも責任があるような無いような状況だった。怪我も損害も大した事はないようだったので、双方ともに頭を下げて終わりになるケースかもしれない。アクシデントではなくハプニングに仕分けられる出来事だった。それなればこそ、呑気に今こうして綴ってもいられるのだが。

 携帯電話から石井隆ゆかりの古書店に連絡して道案内を乞うたばかりであり、直ぐにも顔を出しておきたかった。座席を予約済みの列車の時刻も迫っていたから、警察を呼んだ親切な勤め人にはすまないけれど、その場を彼らに任せて人の輪からそっと離れた。少し卑怯だったかな、男らしくなかったかな、と、落ち着かない気分が正直言えば今も胸に残響する。

 不謹慎ながらあの時、石井の劇画【おんなの街 赤い眩暈】(1980)のラストカットに紛れ込んだような錯覚を覚えた。交通事故で頭部をしたたか打って血を流し、路上に横たわるおんなの話だ。朦朧とした意識の中で黄泉を旅する幻想譚なのだったが、宙を見つめて痙攣するおんなの身体を通り掛かった男女数名が取り囲んで、一部は屈み込んで顔を覗きながら、大丈夫か、救急車を呼んだからね、と、心配そうに声掛けしたりする様子が描かれていた。あんな深刻な場面ではもちろんなかったけれど、魔の刻は誰に予兆を与えることもなく突如現れて、人を非日常へと強引に連れ去っていくことは再確認させられた。

 目的の店で主人に電話の礼を言い、あらためて挨拶を交わしたところ、寡作で知られる漫画家つげ義春に会話内容が飛びもして予想外の充実があった。石井の【赤い眩暈】とつげ義春の作品とは水面下で交信するものがあると勝手ながら私は解釈しているので、妙に濃厚な時の流れを感じてしまう。

 狭い階段を下りて外に出たら、もうすっかり暗くなっていた。今更ながら調べると逢魔が時は大禍時とも書き、魑魅魍魎に出会う禍々しい時間帯と書かれている。あの時、私たちの側にいたのは何者だったのか。高速度撮影に獲り込まれた具合に倒れゆく自転車の様子を思えば、“善き存在”が傍に居てくれたのではなかったか。自転車と車の接触事故がいかに重症化して手に負えないものになるか、わたしは嫌というほど身近で体験している。不幸中の幸いとはまさにあの瞬間であり、ささやかな奇蹟だった。そのときからずっと【赤い眩暈】とつげ義春へと意識が引きずられてもいて、ともすると夕暮れのT字路に舞い戻っている。

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