2017年11月24日金曜日

招かれた者~つげ義春と石井隆~(3)


 劇画家としての石井隆は、これまでに三十冊近い単行本を上梓している。自作だけをまとめた雑誌の増刊号も加えれば相当の冊数に上っていて、機会に恵まれずに消えた無数の絵描きたちと比べれば、やはり確固たる地盤を築いた作家と言えるだろう。それ等をざっと総覧した上で石井隆という作家を最もよく表すのはどれかと問われれば、以下の5冊を迷いなく選ぶ。

「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985
「名美Returns―石井隆傑作集」 ワイズ出版 1993

「黒の天使 Ⅰ (石井隆コレクション (1))」 まんだらけ 1998
「黒の天使 Ⅱ (石井隆コレクション (2))」 まんだらけ 1998
「曼珠沙華 (石井隆コレクション (3))」まんだらけ 1998

 作品論的な視線にもとづいての抽出ではない。石井の絵なり物語は、たとえそれが風俗誌に寄せられた題名さえ持たぬ小さなカットでも、また、頁数の限られた事件物であっても、往時の世相との関わりや創作歴での立ち位置を知る上で貴重である。絵画の世界では若描きが後年の重要作品と連結することは間々あるのだし、特に石井の場合、かつての作品群と現在の取り組みが還流するのが常だ。世の中には「後ろには夢がない」、未来のみを見やることが活路につながるという言葉もあるけれど、石井世界においては過去にも夢があり未来はある。郷愁や自己模倣に溺れるのではなく、徹底して自作の精錬を行なうのが石井の作家性のたしかな一面と思う。

 天上へ向かって“より高く”なのか、底なしの淵に向かって“より深く”なのか、見方は読み手によって変わるけれど、新旧の作品が合わさって奔流となり、渦を産んで、劇的空間へと我々を導いていく。これまでにもそんな独特の技法が露わとなっている訳だから、過去のどの物語、どのコマも一つとしておろそかに出来ない。そもそもが若い時分の作品からして繊細を極め、どれもこれもが魂の糸で紡がれている。見ていて無性に愉しくって、どの本が良いとかあの作品は悪いとかの甲乙はつけ難い。総てが石井隆という宇宙の現在(いま)を構成して見える。

 それでは上に名を上げた数冊にが宿るかといえば、石井隆というひとりの人間の嗜好が浮き彫りになっているのであって、魂の核(コア)が透視され、創作の原動力が読み取れる点が秀逸なのだ。日常からの逃避や鬱憤の処理装置といった役どころを担うのが石井劇画の寛容さであり、濃厚な色香がときに読み手を煽ることを否定するつもりはさらさら無いけれど、もう一歩踏み込んで作家本人に興味を抱き、共にこの時代を生きる者として凝視め直すとき、上記の数冊は譲れない関所となってくる。

 「黒の天使 Ⅰ、Ⅱ」および「曼珠沙華」に収まった異例のインタビュウ、幼少年時から青年時に至るまでの映画遍歴を問われるままに答え続ける「記憶の映画」(聞き手 権藤晋)と題された頁については再三この場で取り上げている。ひたすら映画世界への没入を夢に見つづけ、生業にしてからは全霊を捧げてきた石井の素養がどこで醸成されたのか、読んでいて愉快に無理なく了解されていく。ただただ映画の話に興じるばかりで軌道を逸脱する変化球と見せて、実は剛速球の作家研究リポートであり巧みな企画と思う。

 「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」については何をもって選んだかと言えば、これは石井隆の漫画家つげ義春への深い敬愛がほとばしり、見ていて熱くこころに沁み入る点である。厖大な日本映画と共に石井の核(コア)につげ漫画が在り、どれほど激しく降り注ぎどれほど強く結合したかを示すものとなっている。

 「名美Returns―石井隆傑作集」において石井は最良の理解者である編集者高野慎三に相談し、つげ義春との対談を実現しているのだが、その内容は完全に熱狂的なファンが憧れの作家を前にして話すような具合であって、微笑ましいぐらい丁重誠実であり、表情豊かなやり取りになっている。わたしが石井の【赤い眩暈(めまい)】(1980)をはじめとする数篇につげ作品【ねじ式】の写し絵を見てしまうのは、なにも病的な妄想癖に因るのでなく、石井がつげへの愛情をまったく隠そうとしないからだ。

 「石井隆自選劇画集」は書名から解かる通り、全編に渡って石井の美学を感じさせる造りとなっている。自作劇画の選定から装丁、付録の小型写真集といった何から何までもが石井の美意識を感じさせる一冊に仕上がった。書の冒頭で石井は、三枚のモノクロームの写真を載せている。よくある著者近影なのだが、どれもが肩の力が脱けていて興味深い。

 当然ながら“自撰集”という書物は作家生活のなかでも特別に気合が入るものであって、自身の影像を貼り付けるに当たっては念入りに選り分けるものではあるまいか。机に向かい眉をひそめ、深遠な目つきで筆を握る仕事場の姿であったり、糊の効いた着物を纏ったり洒落た帽子を被って庭に降り立ち、泰然としてカメラをちょっと睨んでみたり、自己演出に余念がないのが通例である。石井が選んだ三枚の写真はどれもが構図、照明に人の手が加わっていない自然なスナップ写真の域にある。

 それぞれに説明が添えられている。「東京・東中野の仕事場で。(中略)壁の油絵は片山健画伯の作。愛蔵品である。」「山根貞男さんの『手塚治虫とつげ義春』(北冬書房)の出版記念会で、つげ義春さんにお会いした夜。」「著者のシナリオ最新作『ラブホテル』のロケ現場で。左から監督の相米慎二さん、照明の熊谷秀夫さん、〈村木〉の寺田農さん、〈名美〉の速水典子さん」とあり、三枚目の映画撮影の現場は緊張と疲労を匂わすもので、相米の横に座る石井の表情は硬いのだが、前の二枚は歯こそ見せないが破顔一笑の風情がある。ゆったりとした気持ちがこちらにも伝わる。もともと石井の笑顔には人を魅了してやまない力があるのだけれど、ここでの表情はまったくの自然体であり、等身大の人柄がそのまま印画紙に定着して見える。

 「自選劇画集」の出された1985年というのは『ラブホテル』以外にも『魔性の香り』(監督池田敏春)に脚本を提供してみたり、劇画家としても掌編の佳作を連発していた時期だ。さすがに“劇画界のドストエフスキー”という美称は誰も用いることはなくなったが、死とエロスの作家という異名を冠する点に揺らぎはなく、本の購入者のほとんどがこれを確認するために手に取ったはずである。そんな石井の自選集の冒頭を飾るにしてはあまりにも平穏な、あまりにも暖かな色彩に満ちた写真たちであった。

 説明文を読んで明らかなように、これら写真の光軸上に立つ主役は石井ではない。三人の作家、片山健、つげ義春、相米慎二を自身の本へと招待し、敬愛の念を刻んで見せている。彼らを最上級のゲストとして扱い、祝宴の始まる間際に壇上に立って献辞を贈っているのである。創作の起点をそっと打ち明ける、密かな読者への目配せでもあるだろう。

 躍進目覚ましい作家が自撰集の編纂を任されたとき、往往にしてこの手の招聘が起こる。ゲストの入場が瞳に留まって会場がどよめく。自分なんかよりも彼らを見てよ、ねっ、凄いよね、嬉しいよね、と視線をうながし、ほかの客たち(読者)のざわめく様子に微笑んでみせるホストの境地が見え隠れする。ゲストの方が燦然と輝いてしまって、主催者たる己の影を薄くしても一向に苦にならないのだ。

 話がそれてばかりで申し訳ないが、たとえば、映画監督の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が1977年に出した評論本「闇への憧れ」(*1)においては、同業者である加藤泰(かとうたい)、詩人の大岡信(おおおかまこと)、それに石井隆が招かれている。これだって上と同様の一種の献辞であろう。

 実相寺はあとがきで「私の書き散らした原稿だけで一興行打てるとは思っていない」と語って、自身の文脈や文体の硬さを気にする余り、「退屈と思う人の為に」、「嘘でも良いから」、「色々な粉飾を考え」た、と続けて、あたかも余興役として三人を登用したに過ぎないような書き方をしているが、実際はそんな単純なものではない。謙遜を字面どおりに受け取ってはいけない。ゲストの登場する頁には実相寺の真(まこと)は無いなどと早合点してはならないのだ。彼らこそが真であり核だ。作家という存在に向き合う研究者は招待者のリストに入念に目を凝らし、ホストたる作家と彼らとを結ぶ線が何であるかを真摯に見定める必要があるのだし、この挿画は本人の筆ではないから、赤の他人との対談だからと軽視する乱暴な思考の分断があってはならない。

 人の素の部分を明瞭にするのは、絵画でも、絵でも、芸能でもスポーツでも何でも良いが、突き詰めれば“何を愛するか”に尽きる。どんな生い立ちの、どんな容姿の、どんな精神的堆積をもった人物に対して愛情と笑顔を注ぐのか。敬愛の向かう先を知ることは、人物理解の最速にして誤りのない里程標だ。

 石井隆の内部にはつげを筆頭に幾人もの愛情の対象者が同居し、彼らの目に応えるべく創意を凝らすところが少なからずある。「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」のどちらにも【赤い眩暈】が収まっているのも偶然ではなかろう。石井劇画の代表作のひとつには違いないが、ゲストとして招んだつげ義春に対する深慮が働き、あのような造本となったと捉えてもあながち間違っていないと思われる。

(*1):「闇への憧れ―所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄 創世記 1977 最近になって復刊されたが、頁数と価格設定のかね合いから上記の石井ほか三人の記述はそっくり別冊へと振り分けられている。故人の魂をあたかも“腑分け”するかの如き乱暴この上ない編集方針と思えなくもない。別冊がどう仕上がるか、いまは固唾を呑んで待つばかりだ。



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