2018年1月27日土曜日

“剪定” ~活劇の輸血(4)~

 往年の映画スチルで切り取られた振り向く、身体をひねるというよく有りがちな動作をさも石井が劇画で引用していたかのように書いた。その少し前には石井が漫画家つげ義春の作品に触発されたのではないか、と気ままな空想をめぐらせている。先日、赤木もつげもそれぞれ同時代に味わった年長の友から、あまりにも君の論は飛躍し過ぎであり、完全に妄想の域の何物でもないからちょっと自重すべきだ、といった内容の助言を受けている。

 そう言われてみれば急速に自信は薄れていき、まったく迂闊なことを綴ったものだと猛烈に恥ずかしくなる。実際、赤木圭一郎の出演作『抜き射ちの竜』、『電光石火の男』、『霧笛が俺を呼んでいる』(*1)を立て続けに観たのだが、あまりにも石井隆のタッチと違うので愕然としたのだった。埠頭や拳銃、美丈夫に甘くふくらんだ唇を持つ女優たちと共通点は多々あるけれど、また、近作で二度も重要な役を演じた宍戸錠だって出ているけれど、どこまでも夢の地平であって石井が飛翔する場処とは構成する要素が異なる。そういえば、確かに石井の口から日活無国籍アクションへの言及は、これまで一度として無かった気がする。ああ、やっぱり私は救いようがない阿呆だ。

 石井隆の活劇は一体なにを栄養源として育ったのか。そんな事はあまり作品の本質には関係ないことなのだけど、一介の愛好者が日頃想いを馳せる途上でどうしても気になっていく。やれる事はひたすら記憶の樹林に分け入り、これとおぼしき種を拾い集めて持ち帰り、どう育つのかを植物図鑑片手に見守るだけだが、やがて芽を出し小さな葉を広げたその時になってようやく見当違いに気付く。まるで違う花だったと嘆息することの繰り返しだ。ここ数回の文章がまさにそうで、また先走った、おまえはぼんくらだと根元からぶちぶちと引っこ抜き、ゴミ箱に放り込もうかとずいぶん思ったのだけど、こうしてまだ未練がましく人目に晒している。

 間違いは正されなければいけないが、埋めたり隠すだけが最善の道ではないと考え直した。石井隆に惹かれる若い人が同じ轍にはまったり、路側防護壁に接触せぬように道しるべとか警告を描き留めることも役目だろう。そこに至った道筋は無駄ではないとも思うし。

 石井とはまるで無関係だが、アドルフ・ヒトラーの第三帝国の意匠についての本を先日読み終えている。彼らの管制は党旗や制服に対象を止めず、街なかに貼られたポスターや建築物、日用品まで広範囲に及んだのだが、それ等を丹念に蒐集し尽した一冊だった。戦後の劇映画での再現や、直接戦史とは関係がないサイエンスフィクションやコメディ分野での形や色の伝播まで事例紹介は多彩をきわめており、子供番組に登場する悪の秘密結社にすら言及する徹底ぶりだ。

 原色を使ったどぎつい装丁や小口にそっと忍ばせた独裁者の肖像にはいささかたじろいでしまうが、著者がグラフィックデザイナーだけに仕事人目線での読みほぐしが披露されていて、内容は手品や特殊撮影の種明かしに似ている。柔らかな空気が漂い、感情を廃した平坦な文章が呑み込みやすい。権力と卓抜したデザインが合体したことから起こる全体主義への崩落を分かりやすくひも解いているのだが、触れること、語ることがタブー視されることでいつしか神秘性を帯びがちな軍関連の意匠につき、実は巷によくありがちな模倣や寸借含めた人間的な製作過程を踏んでいるのだと順序立てて説いてくれる。

 ひと通り読み終えた私は黒一色の親衛隊の制服を見ても以前ほどには煽られないだろうし、それを着る者をもはや男らしいともお洒落とも感じない。まさに其処にこそ、いまこの国で上梓する目的意識があるのだろう。先人の失敗を客観的に捉え直す、そんな読書体験であった。肩がこらない、けれど知的で良心的な書物と思う。(*2)

 その最後の方で著者の松田行正(まつだゆきまさ)がこんな事をつぶやいており、思わず笑ってしまった。「ナチスのデザインにどっぷり浸っているとなんでもかんでもナチスと関係があるようにみえてくる。亀倉雄策さんがデザインしたグッドデザイン賞のロゴ、Gマークもそうだ。」「このような体験は数多くある。ハーケンクロイツ的シンボルを見つけただけで、なにやら得した気になってしまう。」(*3)ご承知の通り、自分にもその傾向がひどい。石井隆の作品にどっぷり浸ってなんでもかんでも石井の創作物と関係あるように見えてしまう私は、やはり頭がどうかしてしまったに違いない。松田のように事実を究めようとするのでなく当て推量をいい気になって書き散らす私は、世間に対して、と言うより石井隆という創り手に対してただただ有害の域にあるような気がしてきて、自ずと視線が地面に向かってしまう、足元ばかりを見てしまう。

 いずれにしても思うのは、石井世界は一個人の資質でほぼ完結しているということか。古き映画と根茎を結び、血脈が通じるように見える石井隆の劇画、そこから派生して来た監督作品たち。スタイルやディテールがあれやこれや先行するものの模倣だらけであっても良さそうなのに、色や構図、運命悲劇の修羅の様相は隔たるものがあって、石井隆という個人の奥にどこまでも集束されていく。業界人ではなく映画作家と位置付けられるひとがこの国にはいまも幾たりか踏ん張っているけれど、石井隆とはまさしくそれなのだと思う。

(*1):『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』 監督 野口博志 1960
『拳銃無頼帖 電光石火の男』 監督 野口博志 1960
『霧笛が俺を呼んでいる』 監督 山崎徳次郎 1960
(*2):「RED ヒトラーのデザイン」松田行正 左右社 2017
(*3): 同 334頁 340頁

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